小倉利丸氏の『瓦礫論』を読んで

前回の記事をアップした後、ある方から、小倉利丸氏がこの問題に関して作成したパンフレット(PDFで読める)の存在を教えていただいた。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=159

http://www.alt-movements.org/nomorecap_files/garekiron_e.pdf


小倉氏は、この問題について、東京(東電管内)に瓦礫を受け入れるべきだという立場で、早くから発言されており、ぼく自身このブログでこれまで何度かこの問題について書いてきたのは、氏の発言に刺激されたことも動機の一つだった。
今回のパンフレットの内容については、前半のものはその頃に読んでいると思うが、後半の二つの文章は未読だった。
読んでみて、やはりぼくの考えと大きく違うところがあるので、それに言及しながら、あわせて自分自身の考えを問い直してみたい。

加害的な責任の問題と、瓦礫受け入れとをリンクさせるべきではない

はじめに、小倉氏も書いているように、この問題に関しては、瓦礫の拡散と受け入れ推進という方向が、政府・中央官庁や石原東京都知事など有力政治家などの方針ともなっており、そのことが賛否の議論全体に大きく影響しているのは事実だろう。
それが政府による方針でもあるという事実が、瓦礫の拡散や受け入れという問題において偶有的なものだとは考えがたいのだが、ここでは論を単純にするため、話のこの側面には触れないことにしたい。
さて、小倉氏の論だが、最も大きな違和感を覚えるのは、氏が東京都民など原発の利益を享受してきた人たちの(いわば加害的な)「責任」の問題と、瓦礫受け入れに伴う被曝のリスクということ、いわば環境や次の世代に対する責任の問題とを結びつけて考えている、という点である。
ぼくの考えでは、人や環境が放射線による被曝の危険に極力さらされないようにするべきだということ(極力、と書いたのは自然界に元々存在する放射線のことがあるからだが)、ここでは具体的には瓦礫受け入れに伴う被曝リスクを東京などの受け入れ地が甘受すべきかどうかという問題は、原発による利益の享受者としての「責任」の問題とは次元が違うと思う。
これは、前者の方が後者より根源的だとか、重大だと言っているのではない。ただ、問題が別だと思うのである。


たしかに原発の問題では、差別的でもある構造のなかで、一部の人たちにだけ被害や不利益が押し付けられるということが、根本的な罪悪ではあるだろう。
だが、前回のエントリーの最後に書いたことだが、被曝のリスクは、「責任」主体でありうるような人間にだけ関わる問題ではない。東京にも福島にも、政治的意思決定(参政権を含む)とも利益の享受とも無縁な人たちは住んでいるだろう。子どもたちは、その一例である。放射能汚染の影響が長引けば、まだ生れていない何世代もの人たちに関わる問題ともなろう。他の生物や環境全体のことも、もちろんである。
要するに、瓦礫を受け入れるかどうかという選択は、自分(たち)だけが危険を引き受けるという形で「責任」をとって解決・改善するような問題とは、質が違う。
一言でいえば、受け入れに伴う被曝の影響は、「責任」をとるべき主体の権限の領域をはるかに越えてしまう。小倉氏も用いている言葉を使えば、そうした(多くは未来の)「他者」に対する倫理的な責任を、小倉氏の主張する行為によってはとりようがないと思うのだ。


小倉氏は、「(瓦礫を)誰に引き受ける責任があるのか?」という風に問いを立てている。それは原発を押し付け、その利益を享受してきた都市の生活者にあると考えるのだろうが、しかし受け入れたことによる被害を実際に受けるのは、この「責任」とは何の関係もない子どもや未生の人たちや他の生命でもあるということを、よく考えてほしいと思うのである。
以上が、ぼくが小倉氏の主張に対して感じる違和感の、まず大きな一つの要素である。


それから、原発事故の被害に関する受益者(都市住民)の「責任」というもの、一般にはこの問題についての加害的な「責任」の有無というものを、誰が被曝の危険(のある瓦礫)を引き受けるかという問題に結びつけるということ自体も、妥当かどうか疑問である。
もちろん小倉氏は、「有責である人間は被曝しても当然だ」と言っているわけではないだろう。瓦礫に関しては、誰かが被曝のリスクを引き受けねばならないという現実があり、
そのリスクをこれまで一方的に(ここまで言い切ってよいかは分らないが)原発を押し付けられ、現在も過酷な状況に苦しんでいる福島はじめ被災地の人々にだけ負わせ続けることは許されるのか、という問いが、小倉氏の主張の根幹だとは思う。
それが許されるべきでないのなら、他の地域の人間が瓦礫を引き受けることは、当然考慮されるべきではないか。
ここまでなら分る。


だが小倉氏の場合、原発の存在を容認し、その利益を享受してきた人々に、特にそのリスクの引き受けの「責任」がある、という論法になっている。
しかし、福島の人たちが被曝の危険に曝されるべきでないのは、「その人たちには責任がないのに、被曝しているから」ではなく、たんに「人は被曝するべきでないから」ではないだろうか。
また、もし小倉氏の言うように、「東京都民は瓦礫を受け入れるべきである」としても、その理由は「都民には(加害的な)責任があるから」ではなく、たんに「人は被曝するべきでないから」なのではないか。つまり、受け入れることが、福島など被災地の人たちの被害を軽減することにつながるから、受け入れを行うべき、という話ではないのだろうか?
要するに、人が被曝するということの暴力性を、社会的な「責任」の有無という次元だけに還元して考えてよいのであろうか。


ここで、「人はすべて不当な被曝の危険にさらされるべきでない」という一般論、原則論を持ち出しても、そもそもそれを踏みにじったのが原発の存在であり、また「瓦礫受け入れ」の拒否が、本当に(小倉氏が示唆するように)他地域の住民のエゴイズムだけに発する態度なのであれば、その原則論は手前勝手な空論であるにとどまるだろう。
だが、小倉氏の考えているらしいところとは違って、「瓦礫受け入れ」(瓦礫の拡散)に反対する主張の根幹にあるのは(全ての人において、とは言い切れないが)、決して単なるエゴイズムではなく、誰もが被曝の危険にさらされるべきでないという普遍的な感情であると思う(この点は、後ほど掘り下げて論じる。)。
だからこそこの主張は、原発の即時全面停止、廃絶の訴えとセットになっているのであり、また福島の人たちを被曝の危険から救うために真に有効な方法は何かという考えと結びついてなされているはずである。
その有効な方法は、避難を最善の選択肢として含むのであり、その選択が多くの人に現実に可能になるためには、政府の瓦礫拡散政策に伴う、被曝や原発の存在そのものに対する社会の反感の薄らぎを阻止し、避難することが社会的に許容されるべき当然の判断でもあれば権利でもあるという状況を作り出す必要がある。また、せっかく避難した先が、「受け入れ」られた瓦礫のために汚染されているのでは、この「最善の選択」自体が無意味になってしまうだろう。
これらは、自分の町で瓦礫を受け入れたくないための方便と受け取られるかもしれないが、実際に反原発の訴えをしながら、瓦礫の受け入れにも反対している人たちの多くは、「(福島の人たちはもちろんのこと)誰の被曝をも防ぐ」という思いのもとに、それらの行動をしているはずなのである。
原発運動のこうした部分についての理解が、小倉氏にはやや欠けているのではないかと思う。


言うまでもなく、原発を容認し、この事故による被害を引き起こした私たち都市生活者、ないしは有権者一般の「責任」は、とりわけ被災地の人々に対して(都市部などの「被曝弱者」に対してもだが)、とてつもなく重いのである(それについても後述する。)。
だが、そうした受益者としての「責任」ということを理由にして、瓦礫の受け入れという、ある意味では安易な選択を行うことは、原発の存在がもたらした被害が、現にいま福島でどれだけのものを破壊し、毀損し、また日本中や世界の環境を幾世代にもわたって損い続けるものであるかという事態の重大さから、かえって目を背けることにつながると思う。
つまりそれは、原発による被曝と環境破壊ということの大きさ、深さを、(都市生活者と原発事故被災者たちとの関係における)「責任」という知性的な了解が可能な次元に押し込め、見えなくしてしまう。
のみならず、その選択によって可能になる瓦礫の拡散という事態は、われわれが行った誤った選択(原発の容認)によって発生した暴力的な現実、つまり汚染という現実を、さらに拡大しながら継続していくことにもなるだろう。
結論として、瓦礫受け入れの問題は、人々や環境の被曝の危険をいかに低くするかということ、とりわけいま現実にその大きな危険のさなかにある福島など被災地の人たちの被曝の軽減ということにどう対処するか、という観点からのみ考えられるべきである。

「瓦礫の受け入れ」は、ほんとうに被災地を救うことになるのか

そこで、いま問題なのは、(加害的な)「責任」の論理とはひとまず別のところで、被災地の人たちが直面している、瓦礫による被曝の危険をどう軽減するかということであり、同時に、被曝の危険の拡散・拡大をどう防ぐか、という困難な課題だろう。
初めに書いておくと、小倉氏は、上記パンフレットの第4章で書いておられるが、このジレンマを、「少数者が多数者の犠牲になる」という構図で捉えられているようだが、これも違うと思う。
ぼくのような受け入れ反対論者は、「数が少ないから犠牲になってもよい」と考えているわけではなく、いま現に生じてしまっている被曝の危険を、他地域(全国各地)にまで拡散すべきでない、と思っているのである。
(ありえない想定だが)日本の人口の大部分がかりに被災地に集中していたとしても、やはり拡散は阻止されるべきだと思う。


また、被災地における瓦礫の処理ということだけで言うと、今回の震災全体とそれほど変わらない量の瓦礫が発生した阪神大震災では、処理の大半が兵庫県内で行われたことはよく知られている。それが今回は、全体の約2割の瓦礫が全国に拡散されて処理されようとしているとのことである。
処理を産業化して地元の復興に結びつける可能性という観点からも、汚染の危険性(放射線だけでなく、アスベスト等についても言われているのだが)さえなければ、瓦礫を被災地だけで処理することには、大きな問題(被災地への負担)はないかと思われる。
ここでは、あくまで被曝の危険をどう考えるか、という論点に絞っていいだろう。


さて、上記の第4章冒頭で小倉氏が言われている、「瓦礫がどこにあっても、被曝の犠牲者を出すな」という主張には、ぼくも同感である。
しかし、「どこにあっても」とは言うが、瓦礫を動かし、さらに動かした先で焼却などの処理を行えば、それだけ新たに被曝する人たちが生じるだろうということも事実である。
それでも、瓦礫を置き続ければ、(特に)福島の被曝状況は、ますますひどくなるだろう(異論があるかも知れないが、そう仮定しておく。)。他地域に持っていけば、量そのものはどこで保管・処理しても同じであっても、累積量という意味では、被曝による健康被害はマシなのかもしれない。
それなら、「被曝の犠牲者を出すな(被害の度合いを最小限にせよ)」という大原則に従って、より被害がマシと思われる瓦礫の移動(受け入れ)という選択をとるべきだという主張にも、理はあるようにも思える。
だがこのことも、実際にはどうなのか分らない。被曝の影響は、どれほど長期間に及ぶか分らないのが怖いところなのだから、福島より「受け入れ先」の他地域の方が「累積量」や健康被害などが少ないだろうと、一概に言えるのかどうか。
それに首都圏などの場合、すでに福島以外の東北地方よりも高い濃度の汚染が検知されている所もあるようである。処理の方法にもよるが、瓦礫の移動・受け入れの方が、(総体としての)被害を相対的に少なくする方策だとは、一概に言えないのではないか。第一、いま政府の進めようとしている拡散策というのは、受け入れ先で瓦礫を焼却したり、その灰を埋め立てに使うというような、濃縮による被曝の危険性を増大させるものなのである。それならしかるべき方法で(それが見つかればだが)、被災地において保管・処理を行った方が、ずっと良いのではないか?
付け加えると、処理の方法に関しては、焼却のような汚染の危険・濃度を高めてしまう方法でなく、燃やさずに防潮堤や防波堤に使うという方法を検討している自治体(南相馬市)もあるそうである(ただ、そうした方法がどの程度可能なのかは分らない。)。
いずれにせよ、福島に住み続けている人たちの被曝を低減させることが緊急の課題であるとしても、だからといって、他の地域の人や環境の被曝量を増やしてもよいということにはならないだろう、というのが率直な感想である。


もちろん、原発による構造的な差別を押し付けられ、今も震災と事故による被害に苦しみ続けている地域の人々に、これ以上の危険を背負わせるのはひどいではないか、という主張は分る。
だが、先に書いたように、処理すべき瓦礫の存在自体が被災地にとって負担であるとは必ずしも言えず、被曝の危険こそが問題なのだとすれば、他の地域が瓦礫を受け入れることで言わば被曝を甘受することが、果たして本当に被災地の人々を危険から救うことになるのだろうか?
それはむしろ、被曝の危険性の高い土地に住み続けることが「当たり前の日常」であるという社会通念を形成することで、被災地の人々から避難や日常生活における被曝防護の機会を奪うことにつながるのではないか。


そもそも、瓦礫を置き続けた場合の、被曝の累積量を問題にするということは、今後も長期間にわたって、高い汚染の地域に人々が住み続けることを前提としているだろう。だがそのことが「当然の選択」とされた場合の、すなわち「定住=避難しないこと」が自明の選択として同調圧力のようなものになり、人々がすでに(瓦礫以外の理由によっても)高い汚染の危険にさらされている土地に、十分な防護の機会も与えられることなく暮らし続けることの方が、大きな健康被害をもたらすのではないだろうか。
高い汚染の地域に人が住み続けることを前提にした被曝反対の訴えは、根本的な矛盾を抱えていると思うのである。

被災地の人たちに対する、本当の「責任」のとり方(メッセージ)とは何だろう

(ここから先に触れた、加害的な「責任」の話に入っていくのだが)小倉氏は、パンフレットの特に第二章のなかで、農業生産についての持論も展開しながら、人々が故郷や農地から切り離されることの暴力性を強調している。また、人々の「帰還権」ということも語っている。
だが、そもそもそうした暴力を行使しているのは、原発原発事故であり、また原発を容認してきた限りでのわれわれ自身であって、「受け入れ反対論者」や「避難推進論者」ではないことを、忘れるべきでないと思う。
受け入れに賛成するしない以前に、われわれは最早、人々をその土地から引き剥がす暴力を行使してしまっている。問われているのは、この暴力を人の生命に対するさらに深い打撃としないために、何をなすべきかということであり、「受け入れ反対」も「避難の勧め」も、そのための行動だとぼくは考える。
また氏は、汚染された地域に人が住み続けることを、「想像力」の名の下にあえて是認することの暴力性、あるいは被害を生む恐れのある農産物を生産し流通させるかもしれないという過酷さのなかに生産者を置き続けることの暴力性については、どのように考えられるのだろうか。
既に甚大な被害を蒙りそのなかで生きている人たちに、故郷の地や、自分の農地から離れて他の土地に移り住めとはとても言えないという心情は分る。だが、実際それだけの暴力を、原発事故は既にもたらしたのであり、その大きな責任はわれわれにもある。
つまり、われわれは既に、生命や健康を代償にするのでなければ人がその土地に住み続けることが出来ないような、不可逆的な状況を暴力的に作り出してしまったのだ。「帰還権」を言うなら、そもそも帰還権も生存権も、われわれは十全なものとしては、被災地の人たちからすでに奪い去ってしまったのである。
ここで(被災地の人々との関係において)なすべきことの第一は、土地を離れがたいという「他者」(被災者たち)の心情に対する「想像力」を理由にして、この汚染という状況のなかに人々を置く暴力を継続することではなく、避難しうるための環境をさまざまな意味で整備する努力を行いながら、被災地の人たちが自分たちの命の大切さに向き合える(肯定できる)状況を作っていく、ということではないだろうか。
そして同時に、はっきりした言葉によるのでなくても、「避難」という命のための最善の選択につながるような働きかけを、やはり行う義務が、われわれにはあると思う。


どれほどの危険があろうとも、自分が生れた土地やコミュニティ、また耕し続けた農地や、そこでの仕事と人間関係といったものを失いたくないと考える人たちが多く居るだろうということは、ぼくにも想像できる。
必ずしも政府や周囲の反対のために避難が困難だからという理由ではなく、生活上の事情や、故郷に対する愛着などから、危険がよく分っていながら福島の汚染地域に留まって暮らしている人たちの気持ちに寄り添うような運動のあり方を提言する小倉氏の観点は、たんに運動論的なことというよりも、人と人との関わり、信頼感の問題として、忘れてはならないものだとも思う。
しかし、生命や健康が失われてしまったなら、生活や「故郷への思い」というものも、そもそも存在できないだろう。すべて、命があってのことなのだ。


いま自分の意志として、危険を承知していてもこの土地を離れたくないと考えている人たちは、そもそも事故によって過酷な日常の中に置かれており、また避難や必要な防護ということについての社会的な理解も補償もまるでない中で自分の行く末を考えなければ状態に居るということも、忘れてはいけないと思う。つまり、避難の自由が公的に補償されるような客観的な条件が整ったならば、自分や家族の健康と生活について、あらためて考え直してもらう余地のある人たちなのである。
それを考えれば、そのような客観的な条件を整える努力を行いながら、命のために、避難の必要性を伝え続けるということは、この状況を引き起こした一人としての、われわれの義務ではないのか?


実際に国などがやっていることは、避難を選択できるようになるための条件作りとは全く正反対のこと、つまり定住し続けることの強制だと言ってよい。そしてまた、瓦礫の拡散によって、命のための避難という行為そのものを無効化しようとさえしているのである。
われわれは、この国の非人間的な論理に同一化することなく、たとえ被災地の人たちから罵られることがあっても、自らが振るった暴力の犠牲者でもある福島の人たちと、人間同士としての生身の関係性を切り開いていくべきであると考える(それこそが、差別の構造を突き破るということだろう。)。
そのことは、「命を第一に考えてください」というメッセージを、あくまで送り続けることによって可能になる。
小倉氏は、「被災地に誤ったメッセージを送ること」を危惧されているが、真に伝えるべきわれわれのメッセージとは、これではないだろうか?
むしろ「瓦礫を受け入れよ」という主張は、こうした真の関係性の構築という、われわれ自身が向き合い果たすべき真の「責任」のとり方の所在(そして加害の重大さ)と、メッセージの真意とを、かえって見えにくくしてしまうものだと思うのである。


なぜそう言えるのか?
それは、瓦礫の受け入れという行為が、それ自体「犠牲の論理」ではないのかという疑念は別にしても、私たち自身の生命や健康を否定するところに成り立つものだからである。
自分の生命に向き合わず、肯定することが出来ない人間が、いくら口先だけで「命の大切さ」を被災地に向って訴えたところで、過酷な状況を毎日生きている人たちの心に届くだろうか。
瓦礫の問題だけに限らないが、自分の日々の生活において、自分の生命や生活を全力で肯定しようとする姿勢をとおしてしか、「命を第一に考えてください」というメッセージの真意が伝わるはずはなく、被災地(原発のある土地)と都市(他の地域)との、真の関係性も作られえない。
そして、「命」の大切さということをめぐる、この生身の人間同士の関係性の構築こそ、小倉氏の言われる原発の差別的な構造というものからの脱却を可能にするものではないか。
そこには、表面的な不和や不信が生じる場合もあるかもしれないが、自他の命を共に肯定するという細い道筋をとおってしか、この目的が果たされることはないと思う。
それならぼくたちが進むべきなのは、瓦礫受け入れへの反対の必要性はもちろん、自分自身の生を肯定するような日々の生き方を実践すると同時に、被災地の人たちが「避難」を考慮し選択しうる環境を、さまざまな形で作っていくという方向以外ではありえないと思えるのである。