『全体性と無限』・享受

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)


この本では、「享受」という言葉が重要なキーワードのひとつになっている。
今日読んだ第二部のAというところでも、このことが重点的に論じられる。
また、ここでは「幸福」という言葉が特別な意味合いをもたされ、「享受」と重なるような意味で使われている。


これらはどういう意味かというと、生きているなかで経験する出来事や行動、それらをわれわれはたんに経験したり行うというだけではなく、その経験や行動自体を生きるのだ、というのである。
ひとは、みずからの生を生きる。生きられる「生」は、生の内容ということになるが、ひとの生とは同時に、その生(内容)を「生きる」という体験でもある。
つまり、人の生には、この二つの次元があるといえよう。両者は、すっぱり分けることはできないだろうが、完全に重なるものでもない。
この後者の、「生きる」という次元の内実(感受性)を、レヴィナスは「享受」とか「幸福」という語で表しているのだといえる。


生の内容ということに関して言うと、相対的に「よい生」と「よくない生」がある、といえるかもしれない。
他人がそれを勝手に決めるのは傲慢だが、当人自身の考えにおいて、「こういう人生より、もう少し豊かな(自由な)人生が送りたかった」ということはあるであろう。たとえば貧しい土地に生まれ、からだに痛みや痒みを感じながら生きる生は、そうでない生より、その人にとっては「よくない生」と言えるのではないか。
そのように当人が思うことは、そのひとが自分の生を否定しているということとは違うであろう。
自分が「生きる」(生きている)ということを受容し肯定した(愛した)上で、相対的に「よくない生」というふうに思う、ということはありうる。
つまり、生において問題になるのは、「内容」だけではない、ということである。


「享受」(「幸福」)とは、まさにここに関わるだろう。
「よい生」であっても、「よくない生」であっても、人はその生(内容)を生きるのであり、そしてその「生きる」という体験そのものを享受しているのだ。
ここには、生の微妙な二重性とも呼べそうなものがある。
われわれは生を(内容について)「よくない生」と考えられるということをもって、「生きる」という事柄の方までを捨て去る(否定する)ような見解を持つ場合があるが、これはあまりに短絡的だ。まして、他人の生について、そのような判断を勝手にすることは、ひどい暴力である。
たしかに、たとえばあまりにひどい痛みをともなうような生である場合、「よくない生」であることが、「生きない」という(当人自身の)選択につながる可能性はある。だがその場合でも、「生きる」というこの次元の体験の意味そのものは否定されていないはずである。


たしかにわれわれは、自らの「生を生きる」という、微妙なずれを持った二重性において、人生を経験しているのである。
そしてレヴィナスは、この「享受」(「生きる」)の次元の生の体験こそが、人と世界とのつながりの根底をなすものと考えている。
このことをレヴィナスは、「糧」という比喩を使って説明している。

糧にあっては、対象との関係があると同時に、ひとは対象との関係に関係しており、この関係との関係それ自身もまた生を養い、生を充たす。ひとは自分の悲しみや喜びを実存するだけではない。悲しみや喜びによって実存するのである。活動がみずからの活動性そのものによって養われるこの仕方が、享受にほかならない。(上巻 p213)


ひとが生きることの幸福(享受)は、内容ではなく、この「生きる」という体験の次元にこそ関わっている。
ひとは、たとえ苦しい生であっても、その「苦しみ」や「悲しみ」を享受する。その享受(幸福)が、ひとをある意味で「養う」のだ、というのである。
また、このようにも書かれている。

生とは生への愛であり、私の存在ではないけれども、私の存在よりも貴重な内容との関係である。生の内容とはつまり考えること、食べること、眠ること、読むこと、はたらくこと、日なたぼっこすることなのだ。(p215)


これはつまり、「食べること」や「考えること」等を、たんに(目的のために)行うのではなく、それ自体を目的(糧)として愛する(享受する)という、ひとの根底的な生のあり方(感受性)を指しているのであろう。




そして重要なことは、この「享受」(「幸福」)を追求する人間の力(生への愛)というのは、生存への意欲よりも強い(というか、反する場合がある)、ということである。
レヴィナスは、「享受」を「生のエゴイズム」と言っているが、ひとはそれを得るためにみずからの存在を賭けることもあるとされる。
「享受」は、一見そう考えられるような、静的な人生の受容というようなものではなく、存在に対する破壊性を含んだもの、『<私>の震えにほかならない。』(p217)というふうに書かれているのである。

享受とは存在においてじぶんを維持することではなく、享受はすでに存在を踏み越えている。(p218)


レヴィナスにとって、このことは「善い」ことである。
それは、「享受」というこのエゴイズムが、それ自体としては孤絶したものでありながら、他者とつながる条件でもあることを示している。
ひとは「享受すること」の孤独において、エゴイズムの中に閉じこもるのだが、まさにそのことによってこそ、一般的(全体的)な領域から分離され、他ならぬ「私」の、他者とのつながりの道が開かれる。
「私」の他者とのつながり(アソシエーション)の唯一の方途としての「エゴイズム」(享受)の重視こそ、レヴィナスの議論のポイントのひとつであろう。





このように見てきて気がついたのだが、レヴィナスが言っている「享受」とは、結局「欲動」と同じものではないだろうか?
というか、そもそも「享受」自体、フロイトラカンが用いている言葉であって、レヴィナスも、その文脈でこの言葉を選んだのではないか。
間抜けな話だが、そのことに全然気づかなかった。
レヴィナスはここでは、「欲動の生」を肯定しているのだ、とも思える。


ところで「享受」という言葉について、訳注のなかで熊野純彦は、「享受」と「使用」(効用)とを対立させ、前者を目的に、後者を手段に連関させるのは、中世哲学の伝統だが、その源泉のひとつはアウグスティヌスにあるといわれていると書いている。
「生きる」こと(その感覚)それ自体を、生の内容はおろか、生存をも越えるような「目的」して感受するようなものとして、人間の心的な生の深い在り様を把握した、レヴィナス精神分析者たちも、その長い伝統のなかで考えていたということだろう。