杉田俊介氏における「敵対性」と「倫理」について

フェミニズムはだれのもの?』に収められた森岡正博氏と杉田俊介氏の対談「草食系男子と性暴力」を読んでの感想。


この対談の中で、たとえば森岡氏が次のように述べていることは、たしかにとても重要だと思う。
これは、森岡氏がかつて、田中美津を論じたなかで、はじめは『(自分は)この社会のなかで「男」として生きることそれ自体』には強い痛みを感じることはないと思い、そのように書いていたが、数年の沈黙の後に、『「男」に固有の性の痛みと苦悩は「ある」』のであり、『むしろそれを無痛化してスルーしうると思い込めたこと、そこにこそ、無自覚な男の暴力の真の源泉があったのではないか』(以上、杉田氏の要約による)と考えるに至った、その考えの変容について述べられた言葉である。

リブが言っていたのは、男が女を支配するなかで、女の側がつねに自分が悪いんだと思わされていく面も当然あって、そこから解放しなきゃいけない。まずはそのことを言う。でも、実は、支配している男性の側も構造によって声を奪われている面がある。そういう気づきをもたらしたわけです。男としての自分が恋愛や性愛、セクシャリティの面でズタズタに傷ついているにもかかわらず、何も痛みはない、自分は無傷の加害者である、というふうに自分を欺き続けていた。そういう形で社会構造の中に自分を適応させてきた。そのことに気づくのに、とても長い時間がかかったんです。(p157)


自分が「無傷の加害者」であると思い込むことが、「無自覚な男の暴力の真の源泉」ではないか、という考えは、多分当たっていると思う。
自分の身体や心が傷つけられているという事実を、自分に対して否認することは、この後の箇所で述べられている、

自分を棚上げにすることは、生命を内側から滅ぼしていくことの定式なのではないか(p160)


という、杉田氏の言葉につながっていて、この自分自身の傷に対する欺瞞や粗雑さが、他者への無自覚な暴力の源泉となっているのだろうということは、私自身の過去と現在の体験を振り返ってみれば、非常によく分かるのである。
自分を「無傷の加害者」と思い込むことで、他者によって傷つけられうる自分の身体性のようなものを否認する。それは「男(である自分)=強者、加害者」という社会の構造やイデオロギーに自分を同化させることで、他者を感受しうるはずの自分の存在の部分を抑圧し、他者とのナマの関わり合いから自分を遠ざけることだ。その言わば、目を閉じた状態で、無意識の暴力が発動されて、現実社会の力関係のなかで他者を傷つけていく。
「自分を棚上げにする」とは、傷つけられうる自分の身体性に蓋をしてしまうことであり、蓋をしていることにも無自覚になった、その強固な自己抑圧の構造が、「無自覚な暴力(権力)」というものの根にはある。


これは、以前中島義道氏の『哲学の教科書』を読んだときにも、「死の恐怖」ということに関して思ったことだが、私には、この身体性への抑圧、無自覚さのようなものが強くあり、それがしばしば自他への暴力的な振る舞いとなって現われる、ということがある。
だから、「自分を棚上げにする」ことの解体、「加害者」であるばかりでなく、「被害者」でもありうる自分という存在の自覚は、私にとっても重要な(実存的・倫理的な)課題だと言える。




だがそれでも、私がこの対談の全体に対して違和感を持つのは、私が傷つけられてきたその暴力(また他者を傷つけているその暴力)において、傷つけているのは、現実にはどんな力なのか、ということについてである。
男である私は、女であるあなたを傷つける。無論、その逆もあるだろう。
だが、現実の暴力は、倫理的な主体でもあるこれら二人の人間の存在にだけ関わるものではない。
人は、差別的な社会の構造によっても、また政治権力や資本の力、社会、組織の力といったもの、そういったものによっても、傷つけられる。
暴力や傷には、そういう側面がある。
私が誰かに傷つけられる時、それらの力の総体によっても、私は傷つけられているのである。


そこで、社会の中での暴力的な関係を論じるとき、個人間の関係だけを重視して、この社会全体の差別構造、支配的な権力の存在を見ないのなら、属性や立場の異なる個人と個人との「対等」な敵対性、相互性のようなものだけが浮かび上がり、それを露呈させてぶつけあっていけば、何か良い結果が生じるかのような結論が出てくる。
だがそれは、おとぎ話のようなものではないだろうか?
杉田氏が、

「よき全体主義」と言いましたけれども、歴史の成熟の中で、それに対する「よき敵対性の複数性」があるのかもしれない。(p166)


とまで言うとき、私はそういうことを強く感じるのである。


この「よき全体主義」という言葉は、これより少し前の箇所に出てくる言葉だ。
そこでは、多元主義的で他者に対してきわめて寛容である一方、「誰もが潜在的な逸脱者」となり排除の対象とされうる、「排除型社会」の到来という論が紹介され、また稲葉振一郎氏がそれを「よき全体主義」と呼んでいることも言及される。
そうした社会が良いか悪いかという判断は留保されるが、『対立の政治や敵対性の次元がすでに無害化されデータベース化されてしまっている(p152)』という社会の現状についての認識が、前提となって対談が進められていくのだ。


だが、そのような社会は、実際に存在(到来)しうるものだろうか?
私には、社会において専ら排除の対象になるのは支配的な政治権力によって「排除すべき対象」として指定された人たちである、と思える。
諸々の属性が、その重要な基準とされることが多いことは否定できないはずだ。「女だから」「同性愛者だから」「障害者だから」「ユダヤ人だから」「朝鮮人だから」「野宿者だから」「無学だから」等々。
そうした指定を受けている属性を持つ人と、持たない人との間では、(排除などの)「暴力」や「傷」をめぐる位置は対等ではないと、私は思う。
個人同士では無論対等だが、暴力は個人的にだけ働くものではないからだ。


排除すべき対象を恣意的に指定する、この政治的・支配的な権力の存在を外して考えるなら、敵対性は、まったく個人と個人の間にだけ存在するものであり、それを露呈させる(ぶつけ合う)ことこそ、真に望ましい社会の実現への道だ、ということになるのかもしれない。
ここでは社会は支配的な権力や、権力の不均衡によるメカニズムなしに、対等な個人間のやりとりだけによって排除の対象を決めたり社会全体を自己形成していくものと考えられるのだから、それが「欺瞞」や「無自覚な暴力」を生み出すのを避けるには、ただ個人間の対等な倫理的関係だけが突き詰められれば良いことになるからだ。
だが、そのような、いわば政治的権力という要素を脱色された敵対性(に基づく倫理的関係)は、それだけでは、支配的・差別的な構造の温存に力を貸すだけの、「操作された敵対性」とでも呼ぶべきものでしかないと思う。


杉田氏は、しばしば「弱きものからの問いかけ」「言葉をもたないものからの問いかけ」といった意味のことを言う。
だが、そうした存在を持ち出すことは、現実の社会のなかで働いている権力構造を捨象し、そのことで氏が自認している「敵対性」を正当化するための方便のようなものではないか、というのが、私の率直な印象である。
つまり、「弱きもの」が持ち出されるのは、結局は、現実の関わりの場において、氏よりも相対的に弱い立場に立っている他者の、その弱者性を剥奪するために他ならないのではないか。


そのことによって、氏が自身の加害性や暴力性を否認もしくは、免れようとしているとは、私は無論思わない。
ただ、氏はそうすることで、自己に内在する暴力性(敵対性)を正当化、あるいは神秘化しようとしているのではないか。
それは、われわれの暴力性(敵対性)という、社会性を帯びた生の本質を、一見社会の外部にあるかのような空間に移しかえ、別のものに変質させてしまう行為ではないかと思う。
そのように変質させられた暴力性は、一見私的なもののようにも見えて、実はもはや「われわれ自身のもの」ではない。
それは、権力によって操作可能な暴力性へと変容されているのだと、私には思えるのである。