『全体性と無限』・多産性

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)


この本の第4部では、男女のエロス的な関係と、レヴィナスが「父性」、「多産性」(別の訳では「繁殖性」)と呼ぶものが、「私」の存在からの超越を最終的に成就させる契機のように語られている。
ここまでこの本を読んできて、この段階への移行には、大きな飛躍があるようにも感じられ、正直、戸惑う。
すでにこの箇所を重視して本書を読み解くすぐれた読解*1も存在するが、ここでは感想を一つだけ書いておく。


ぼくが、この第4部の語りの真意を理解したと感じたのは、この後の「結論」の最終部、つまりこの本の本当の最後のところで、レヴィナスが彼の言う「家族という驚異」を、国家の外部に位置するものとして称揚している箇所を読んだときだった。

『多産性という生物学的事実のうちで、多産性一般の骨組みが、人間の人間に対する関係、《私》の自己への関係としてえがき出されており、それは国家をかたちづくる諸構造とはまったくことなるものである。(p272)』


『多産性の無限な時間のうちで生きる主体の対極に、国家がその雄々しい力によって産み出す、孤立した英雄的な存在が位置している。その存在はかれがそのために死ぬことになる大義がなんであろうと、ひたむきな勇気をもって、死に接近する。孤立した英雄的な存在は有限な時間を引き受け、死という終局を、あるいは死という移行を引き受ける。(p273)』


「多産性(繁殖性)の無限な時間」という考えは、「孤立した英雄的な存在」の死によって引き受けられる「有限な時間」に対立している。この対立を、レヴィナスは、「家族」による、国家と全体性(存在)の論理への抵抗に重ねているのだ。
つまり、レヴィナスが「生殖」に結びつくものとしての「家族」を称揚するのは、そこから切り離された(孤立した)存在のあり方が、結局は国家と存在の枠組みに呪縛されて生死を経験すること(死に向かうこと)に他ならない、と考えているからである。
この呪縛からの解放の契機を、レヴィナスは「家族」に、そして「生殖」という人間のあり方(営み)に見出す。


彼の言う「父性」も、この観点から理解する必要があるだろう。

『父であることにおいて父は、たんに息子のしぐさにばかりではなく、その実体、その唯一性のうちにも、ふたたび自分を見出すからである。(p193)』


『多産性が老いを生むことのない歴史を継続させる。無限な時間によって、老いていく主体に永遠の生命がもたらされるわけではない。無限な時間とは諸世代の非連続性を貫いてより善いものなのであり、子の汲みつくすことのできない若さがその時間を刻んでいるのである。(p196)』


『父性とは、他者でありながらも私であるような異邦人との関係である。(p213)』


『みずからのそれとはべつの宿命をもつことのできる存在が、多産的な存在である。父であることにおいて《私》は、避けがたい死という決定された事柄をつらぬいて、<他者>へと繰り延べられてゆき、時間はその非連続性によって老いと宿命とに勝利する。父であるとは、自己自身でありながら他なるものであるしかたである。(p222〜3)』


レヴィナスは、親(になる人)が子どもを持つという経験を、血のつながりのようなものの連続性としてではなく、逆に非連続性として捉え、そこに自分(父)が自分の存在との同一性の桎梏を抜け出して、「自分でありながら他者でもある」というようなあり方に「変容」する契機を見出している。
この「非連続性」という言葉の意味は量りがたいが、ある人が自己の死を(いわば)繰り込んで次の世代の人へと、生身の存在としてつながっていく、受け渡していく行為のなかに、生の意味の核心を見ていると考えてよいだろう。
レヴィナスはそのことのなかに、全体性(国家の論理でもある)の支配を脱却する糸口を見ていたようなのだ。
人は「孤立した存在」として、どのように自分の大義にもとづくものと考えて行動しようと、その結果(他人ばかりでなく)自分の死を選び引き受けることとなろうとも、当人の意思や情念に反して、それは所詮、国家と存在の枠のなかの行為にしかすぎない。そこには、「生の意味」と呼ぶに値するものはない。
それが、レヴィナスの主張であろう。


逆に言うなら、人々のなかで「自分でありながら他者でもある」ような生き方を選ぶとき、人は誰でも(実際に「家族」や「子」を持たなくとも)、国家の論理の外で人間としての生を生きることになる。
このくだりから、ぼくが受け取ることができると感じるレヴィナスのメッセージは、現時点でそのようなものである。

*1:小泉義之レヴィナス 何のために生きるのか』。