虚構の力

はじめての「黒人の大統領」の誕生だと言われる。
この表現自体妥当かどうか分からず、「アメリカ社会での人種的マイノリティからはじめての大統領が誕生した」ぐらいの表現が適当かもしれない。もちろん、それ自体たいへんな意義をもつことだろう。
また、オバマ自身は「有権者は人種の壁を越えて変革を選択した」というふうに言ってるようだが、アメリカに黒人の大統領が誕生すること自体、「変革」の何よりの象徴になるだろうから、その面ではオバマの人種上の属性が有利に働いた、と言えるかもしれない。


そんな風に言っても、オバマの勝利演説の集会に来て涙ぐんでいる、肌の色の黒いおっちゃんやおばちゃんを見ると、他人事とはいえ、胸が熱くなることも確かだ。
これはひとつには、そこに「黒人である人」たちの個人史、家族史、民族史のようなものに関わる思いが込められていることを感じるからだろう。そういう思いをしてきた他人たちの感情を想像して、たしかにいくらか、心を打たれるというようなことはある。
そして、社会のなかで少数者として苦難を味わってきた、そうした多くの人たちの思いが、政治の大きな場面に重ねあわされるような社会というものを、それは政治的虚構であるのは当然のこととして、それでもやはり羨ましいと感じる。


今回のオバマ候補の勝利は、「人種の壁が乗り越えられた」という理想的な面より、「背に腹はかえられない」という生活上の実感が、差別的な感情を上回ったという面の方が、たしかに強いのだろう。
また、内政面に限定しても、オバマによって掲げられた「統合」という主張に、多数者、すでに多くの権益を得ている人たちに都合のよい、新しい「和解」的な、しかも相変わらず「強さ」と「同質性」を志向する国家秩序の、不吉な匂いが感じられることも事実だ。


だがそれでも、民主主義という政治的虚構が、苦難のなかで生きる人たちに勇気や希望を与えるものとして、あの国ではまだ生きているようだ、ということを思わざるをえないのである。
真の民主的な社会というものが、また真に良い意味の社会の「変革」が可能だとすれば、それは虚構(制度)と人々の内面との、そういう信頼と働き合いのような過程を通してしか、実現できないものだと思う。
そればかりでなく、政治がそのように、平等(差別がないこと)に基づいた内容を持ち、信頼や希望を託するに値するものであると考えられることは、その現実の下で生きざるを得ない個々の人たちに、なにがしかの力や安心を与えないはずはない。このことが、軽視されるべきではない。




一方日本の首相は、こう述べたと言う。


首相VS記者団:日米関係「新大統領との間で維持する一番大事なところ」 11月5日午後7時〜

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081105mog00m010048000c.html

Q:まず米大統領選挙。オバマ氏当選が決まった。黒人初の大統領だが感想は。


A:そうですね。日本の場合はあの、どなたがアメリカの大統領になられようとも、日本とアメリカとの関係というのは、50年以上の長きに渡って双方で培ってきた関係。新しい大統領との間で維持していく、一番大事なところではないでしょうかね。


「黒人初の大統領」の感想を聞かれて、それはまったくスルーし(記者も突っ込まず)、「どなたが大統領になられようとも」という一般的な話に変えてしまったわけである。
オバマ自身が、「統合」重視の立場から人種的なことを言ったり言われたりするのを避けてるらしいが、それに配慮したというより、麻生はそもそもそういう話に触れたくないのであろう。
それはもちろん、有名なこの逸話を思い出せば、当然予測のつくことだ。

総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。( 魚住昭野中広務 差別と権力』)


だが、麻生という政治家が、明白な差別的な思想を持ってるかどうか以上に(持ってると思う)、苦難の中にある人の内面と政治の仕組みとの働き合い、信頼関係を、この人が信じていないらしいということこそが、ここでは重要だ。
「黒人初の大統領」ということに対する、彼の感度の低さが示しているのは、そのことであり、それは民主的な政治や「変革」の可能性を自ら殺しているのだと言える。
こうした政治家は、信頼も変革も、そもそも望んでいないのである。
そして、それはもちろん、こうした政治家を権力の座に易々と置き続けている、われわれ有権者の、内面の投影でもあるだろう。