探偵ナイトスクープ(末尾追記)

関西には「探偵ナイトスクープ」という人気番組があるが、先日、番組が20周年を迎えたか何かを記念して、過去の評判のよかった回の再放送をやっていた。
ぼくが見たのは、93年の2月のある週の放送だった。
当時は上岡龍太郎が「探偵局長」として司会をしていた(現在の局長は西田敏行。秘書は当時も今も岡部まり。この人は、この番組と、村上龍の「リュウズ・バー」以外に出てるのを見たことがない。)。
ちなみに、上岡の盟友、横山ノック大阪府知事に当選するのは、この二年後である。


さて、その番組の中で、次のようなエピソードがあった。
ある所に、学校か何かに元は置かれていて、今は事情があって道端に放置されている二宮尊徳銅像があるのだが、それを見て不憫に思った視聴者のおばあさんが、なんとかちゃんとしたところに再び置かれるようにしてもらいたいとの「依頼」を番組に送ってきたのである。
この依頼を受けて、銅像をリヤカーに載せて学校や保育園を回り、奔走するのが、当時売り出し中のトミーズ雅である。
学校を幾つか回るのだが、どの学校にも断られる。雅が不思議に思って、ある学校の校長にたずねたところ、二宮尊徳は、「お国のため」というような思想が強制された戦前・戦時中の教育のシンボルであり、そのような悪用・悪影響の心配があるので、学校で引き取ることは出来ないのだ、と説明される(たしか、ぼくが通ってた学校にはあったと思うので、大阪の特異な事情かな?)。


このくだりは、依頼者のおばあさんの素朴で人情味あふれる態度と、学校長の杓子定規で冷徹ともとれる態度とが対照的であり、ぼくは学校長の方に嫌悪感をもった。おそらく、雅も、視聴者の多くも、そう感じただろう。
結局、どの学校にも断られるのだが、大阪市内のある保育園が引き取ってくれることになる。じつはこの保育園には、すでに一体の二宮尊徳像があったのだが、もう一体置くということにしたわけだ。


依頼者のおばあさんも大変喜び、これで一応番組的には「一見落着」という感じなのだが、ところがスタジオの場面に切り替わると、上岡局長が、「探偵」の行動に苦言を呈する。
なぜ学校などの教育施設に置くことにこだわったのか、ということである。放置されて路傍に置かれているときでも、すでに賽銭のようなものが供えられていたという。それなら、商店街とか、個人の庭に置いてもらうという方法もあり、そうすれば、ずっとスムーズにいったのではないか。
学校や保育園に置くということは、やはり戦前のように利用される危険性はある、という意見であった。
それを言われて、雅の方は、驚いたような、納得のいきかねる様な表情であった。


実は、ぼくも上岡のこの発言を聞いたときは、意外に思った。
番組の映像を見た印象では、これは一種の美談であり、そして学校に置くことを頑なに拒んだ学校長は、どう考えても「融通の利かない、ひどい人」だったのである。
だが、上岡は、学校などに置くということにこだわり、最終的にそのようにした雅の行動の方に異を唱えたのだ。


雅のとった行動は、明らかに視聴者の「情」にかなう行動であり、番組の作られる方針も、その線を目指していた、と思う(実際、現在関西で大きな人気を得ている雅というタレントの、優れた特徴も、そういうところにあるのだ。)。
だが上岡は、おそらく彼個人の考えと感覚にもとづいて、この番組の作られる方針、そして視聴者に訴えたであろう「情」の部分に疑いを示し、彼一流の口調で切り捨てたのである。
自分が信じる「理」にしたがって、テレビ的に作られる「情」を拒み断罪する。上岡龍太郎は、それが出来る芸人だった。


おそらく上岡は、あの学校長の形式的な態度などは、もっとも嫌った人であろうが、そのことと、彼自身の考えや感覚にもとづいて何を信じるかということ、またテレビが強いてくる(大衆的と称されるような)「情」への安易な協力・同調を拒むこととは、また別の事柄だった、ということだろう。


上岡のお父さんは、たしか有名な弁護士で、貧乏な人のために無料で仕事を引き受けるような人だったというから、そういう筋金入りの部分を受け継いだ面があるのかもしれない。
これは、部落解放運動に尽力した僧侶の父親を持つ植木等を思い出させるが、上岡は、その社会批判的な考えを、芸のなかで示すことができた。


現在、上岡のような人気芸人がいるのかどうか、ぼくにはよく分からない。
だが、ぼく自身がもっとも考えるべきだと思ったのは、番組を見ていてぼくもやはりそこで描かれていた「情」の部分に共感し、保育園に尊徳の銅像が置かれるということを何の抵抗もなく肯定した、ということである。
あの学校長の言い分も態度も、たしかにずいぶんひどいものであったと思う。だが、学校にそれを置くべきではないという論理自体が正当であるかどうかは、それとは切り離して考えなくてはいけないことである。
その「論理」そのものを、本当に真剣に考えることが出来ていれば、上岡のような疑念や抵抗が、番組を見ていて当然沸いたはずであるが(もともと置くことに賛成ならば別だが)、それは「情」のリアリティ、自明さの前にかき消されていた。


この番組が放映されてから、今年で15年が経つわけだ。


追記:ユーチューブに、たとえば、こういうのがあがってたんですね。たしかに、こういう感じの人だった。現宮崎県知事も呆気にとられてる。