攻撃と黙認によって失われるもの

この集まりには行けそうにないのだが、代わりに今考えてることを書いておく。


朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会≫
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/sasaeruki091204c.htm



こういう行動によって起きる結果としては、もちろん子どもたちをはじめ、攻撃にさらされる人たちの心が傷つけられる、危険にさらされてダメージを受ける、そういうことがある。
だが、こうした行動・言動や、それを黙認する警察・行政の態度によってもたらされる、実際的な効果は、そうしたものばかりではない。
それは端的に言って、朝鮮学校の経営、その存続が立ち行かなくなるだろう、ということである。


いま現在、経営(運営)の苦しくない朝鮮学校など、日本に存在しないはずだが、こうした事件と、それへの警察及び社会の黙認的な態度は、その苦境を決定的なものにするだろう。
朝鮮学校の経営が苦しいのは、もちろん日本政府や行政からの公的な補償がないなどの理由があるが、それ以外に近年の「北朝鮮バッシング」や、より広い差別的な風潮の蔓延、そして少子化の影響などが重なり合った結果の、生徒数の減少ということが大きいのである。
その減少傾向に、こうしたレイシストの行動と、それに対する警察・行政・メディア・市民社会の共犯的な黙認とは、とどめを刺すような効果を及ぼす怖れが強い。


だいたい、朝鮮学校に子どもを通わせる親たちは、はじめから「朝鮮学校以外に子どもを通わせることはない」と決めている人たちでさえ、内心ではそのことに迷いや葛藤を持たない人は、少ないと思う。
その最大の理由は、日本の社会の差別性である。自分に自信を持って生きるために、あるいは安心できる仲間たちと人間らしい関係を結びながら育つために、などなどの理由で、朝鮮学校への進学を決める場合でも、朝鮮学校に通って、そのように朝鮮人としての自己意識を明確にして生きていくということが、この差別的な社会のなかでは、本人に責任のない苦しみや負担を子どもに負わせる結果になることを、多くの親は心配するだろう。
そして、朝鮮学校の出身であるということで、制度的にはもちろん、社会のなかで多くの差別や偏見にさらされる心配も、小さくはないだろう。
みな、そういう日本の国と社会の度し難い差別性ゆえの、葛藤やためらいや不安のなかで、そのぎりぎりのところで、子どもを朝鮮学校に居れるという選択をし、通わせているはずである。
そして、この選択を「ぎりぎりの」苦しいものにしているのは、他ならぬ、ぼくたちとぼくたちの社会の差別性である。


それでも、あえてその苦悩を押し切るように、子どもを朝鮮学校に通わせるという選択を親たちがするのは、それもまた日本の社会の差別性のゆえ、つまり、攻撃や排除にくじけない自分の存在への信念や自信と、親密な人間関係、そして社会の大勢に飲み込まれない自由な思考力などを持って欲しいという、いわば「生き残り」への願いに支えられてのことだろう、とも思う。


だが、そうではあっても、朝鮮学校に子どもを通わせる多くの親たちが、この社会の差別性ゆえの不安や心配のなかで、子どもを通わせているということ、通わせる決断をするだろうということに変わりはない。
今回のような事件が繰り返し起こり、それに対して警察も市民もメディアも、まったく冷淡または無関心だということになると、その「ぎりぎりの」ところに常に(不当にも!)置かれている親たちの多くは、あえてそんな危険極まりない場所に子どもを通わせるということを、断念せざるを得ないだろう。
そう仕向けているのは、無論ぼくたちなのではあるが、子どもの安全と安心のために、朝鮮学校に通わせないという選択をする親たちが増えることを、誰も非難出来ないだろう。
するとそれは、ただちに朝鮮学校の運営を困難にする。


こうして、朝鮮学校は、遠からず日本から消滅していくことになる。
そしてそれは(ここが肝心なところだが)、人為性のまったくない、在日朝鮮人(の親たち)の自由意思にもとづく、自然消滅的な事態と、社会の大半の人には受け止められるだろう*1


つまりこれが、こうしたレイシズムの行動と、それへの黙認的な態度(警察・市民社会・メディア等の)が生じさせる効果なのである。
ひとりひとり、例えば、現場で「監視」しているらしい警察官が、そんな意図をもって動いているかどうかは知らない。
だが、そこには、「目障りなものは消えてくれ」という、レイシストと警察とぼくたち一般社会の、共通的な「狙い」が密かに込められていることを、誰が否定できるだろう?
とりわけ、朝鮮人の前に立って。


こうしてみると、今回の事件が起きるずっと以前から、このような「目障りな存在」の「自然消滅」への密かな願望がこの社会を覆い、朝鮮学校に関わる人たちを圧迫し続けていたことが、よく分かるはずだ。
この人たちは、ぼくたちの社会全体の、この密かな願望の犠牲者である。
そして、この願望を最終的に実行する尖兵が、あのレイシストの人々、というわけだ。




http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091210/1260431158
この記事のなかでfont-daさんが、

むしろ、グラウンドがない、ということを通して、すべての「日本人」と民族学校は接続されるはずなのに。


と書いていたのは、まったく本当だ。
ぼくたちは、(朝鮮人という)他人と接続することが出来る自分の中の部分を否認することによって、自分の安定をかろうじて得ようとしている。
そうやって、攻撃と(暗黙の)排除によって守られるものは、ぼくたちの抜け殻でしかないのに。
「目障りな存在」の排除された後に残るのは、ぼくたち日本に住む全ての人間の、抜け殻だけで構成された墓地のような社会だろう。
ぼくたち自身が今危機に面して立っているのは、その墓地への入り口なのである。

*1:何しろ、こうしたレイシズム事件の発生そのものを、メディアはほとんどまったく報じていないし、知っている人の大半も、もっとも良い場合でも「無関心」または「中立的」なのだから。