ETV特集 埋もれた声 〜大逆事件から100年〜

最近、この番組のことばかり書いてるようで気が引けるのだが。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html



大逆事件」からほぼ百年が経って、ようやく弾圧による冤罪の被害にあった人たちの名誉回復が進められているということである。
ぼくは、一時中上健次の熱心な読者だったので、新宮の町の歴史や風土については文章(小説やエッセイ)を介しては知っているし、大石誠之助など「事件」に関わったとされ処刑されたり投獄された人々のことも少しは知っていた。
しかし、この事件が、そのひとつの町に、これほど大きな影を投げかけていたとは、迂闊にも今まで想像したことがなかった。
番組に登場した人たちは口々に、町全体が「大逆を犯した町」のように見做されることへの恐怖心から、被害家族たちへの排除・迫害に走ったのだろう、と言っていたのである。
こうしたことを軽くみていたことは、ぼくが「大逆事件」というもの、また近代の天皇制というものの存在の重さを本当には分かっていないということを、端的に示しているだろう。
この「事件」が、投獄・処刑された人々や家族たちばかりでなく、どれほど多くの人たちの人生を覆い、変えてしまったか。


それにしても、番組では何度も、「排除を行った自分たちの闇の歴史に光を当てようとする」町の人たちの姿が強調されていたが、番組の製作者たちも暗に伝えようとしていただろうように、これは新宮という町だけの「闇」ではない。
こうした排除や迫害を行ったのは、日本の社会全体であったはずである。
それだけに、その「闇」を背負って、自らそこに光を当てていこうとする新宮の人たちの勇気ある態度に、本当に頭が下がる。


番組では、言い尽くせない迫害や排除、差別にあってきた家族の人たち、またそれを見つめてきた人たちの証言がつづられるのだが、最も印象深いのは、最後のシーンだ。
子どもの頃から、ずっと苦しみを受け続けてきた、年老いた男性に、インタビュアーは「あなたにとって、大逆事件は過去のものですか?」と尋ねる。
恐らく質問者は、「いや、自分のなかで過去のものにはなっていない」とか、「なっている」とか、そういう答えを予測していたのではないかと思う。少なくとも、ぼくはそう予測した。
だが、帰ってきた答えは、それを裏切るものだった。
短い沈黙、だがそこで深い思考と思いがめまぐるしく動いていることを感じさせる沈黙の後で、老人はこう答えたのだ。


『いや、過去のものとは言えない。これから先、未来にもこういう事件は起こりうるから』


つまり、何か個人的な感想を言うだろうというぼくの予測に反して、この人の眼差しは、社会全体を見つめていたのである。
ここに何か、決定的な断絶がある。
社会や国家によって、あまりにも深い傷を受け続けた人たちは、そしてほとんどその人たちだけが、社会全体の変容(と変わらぬ体質)への確かな眼差しを、否応なく抱き続けている。
そうでない者は、そこに個人的なもの、内面、私的なものしか予想しないが、こうした人たちの瞳は、否応なく社会全体へと開かれている、そして見たくないものにまで向けられてしまうのだ。
その、曇りなく開かれた眼差しに捉えられた社会の映像のなかに、ぼくたちの(無防備ゆえに暴力的でもある)姿も映っているのである。


「こういう事件」は、たしかにこれからも(これからこそ)起こりうるし、これほど大規模であからさまでなくとも、すでに起こっているかもしれない。
その的確な、しかしぼくにとっては全く不意をつかれた言葉を残して、老人は去っていく。
大逆事件」が、決して「解決」や「清算」を(ましてや「忘却」を)待っている過去の出来事ではなく、われわれ自身にとっての現在と未来に関する事柄だという事実が、番組の最後にあざやかに、衝撃をもって示されるのだ。