『魂と罪責』

魂と罪責―ひとつの在日朝鮮人文学論

魂と罪責―ひとつの在日朝鮮人文学論


この本では李箱や金素雲、金史良といった戦前の朝鮮人文学者から、金時鐘、金石範、高史明、李恢成、梁石日、李良枝といった名高い人々を経て、柳美里金城一紀玄月、さらには李静和といった現在の書き手たちまでが扱われる。
またのみならず、金嬉老小松川事件の李珍宇といった人たちも論の対象となる。

故郷喪失(エグザイル)は、それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である。


この本の冒頭には、上の一文ではじまるサイードの『故郷喪失についての省察』(大橋洋一訳)のきわめて印象深い一節が引かれた後、次のような著者の文章が刻まれることで、叙述が開始される。

語りえないものを前にして想い屈してはならない。
 言葉を喪えば、人は、未来への希望を喪う。(p6)


この前半の一行は、じつは本書のなかで最大のボリュームをもって論じられている作家、金石範のエッセイの一節によっているらしいことが、この本の末尾になって明らかになる。
いわばその言葉に示される何かに衝き動かされるようにして、「語りえないもの」を前にした沈黙への誘いに抗するように、この大部の本の叙述は開始されるのだ。
その叙述の内容、つまり著者にとっての「在日朝鮮人文学」が有する「語りえないもの」の内実とは、どんなものなのか?
これは複雑なのだが、ひとつには、冒頭のサイードの文章から受け取られること、つまり他者の「最悪」な経験を、自分が帰属する「旧宗主国」の多数者の側の社会の「豊かな」文化的・文学的資源として消費してしまうことへの怖れ、別の言い方をすれば一個の人間としての不快さだろう。
たとえば、次のように書かれる。

在日朝鮮人文学の野蛮なほどの膂力がどこから発してくるにせよ、支払われた犠牲は厖大であるに違いない。負荷がどれだけ積もれば、こうした原風景に至るのか。(p11)


また、

植民地主義の記憶が身体回路にあるにしろ、ないにしろ、同じ日本の地にあっても、日本人と在日朝鮮人が同一の時間感覚、同一の共同体意識で生きることは金輪際ありえない。(p16)


著者のなかにあるのは、異質な経験を重ね、異質な時間を生きている他者との差異についての強い意識だといえよう。
著者が何度も述べているように、それは日本人としての贖罪の意識、といったこととは別物である。
他者と私の差異を重視するということは、その次元における私の存在の強固さにこだわる、ということでもある。それは、他者への怖れなのだが、それ以上に、少なくとも同時に、歴史の時間のなかで「私はここに居る」という論者(著者)の側の宣言である。
このことは、この本における論のあり方を、かなり規定しているようにも思える。


だが何より重要なことは、この他者が、私と同じ(唯一の)歴史を、差異そのものをとおして共有している、ということである。
差異といっても、中性的な、抽象的な概念ではなく、他ならぬ具体的な私と他人とが関わり合う歴史の中における差異なのだ。
差異の肯定、その重視によってのみ確保されうるような歴史の実質と、私の確かさ。そして、その内実を作るものでもある、他者(差異の彼方の者)への狂おしいほどの愛。
この本の全編にみなぎっているのは、著者の、「在日朝鮮人文学者」という他者に対する、その濃密な愛情であるといえる。


本文から、少し引いてみよう。
著者は、在日朝鮮人文学の無条件な賛美者では決してない。
むしろその、『一方的な礼賛のあまりみすごされた<後進性>を正しく照射することが要請されている。』(p121)という風に書く。
それは、そうすることが、この歴史のなかでの他者の姿と、語る私(たち)自身の姿を、ともにさらけ出すことにつながるからである。
別の箇所では、さらにはっきりと、こう書かれる。

在日朝鮮人文学は、金石範を例外とするしないにかかわらず、旧植民地人の文学でありつづけた。こうした側面を本質的な要素と捉える視角は、従来の在日朝鮮人文学論においては、ある種の後ろめたさからなのか、忌避されつづけたようだ。(中略)しかし疑いもなく、大日本帝国における特殊な脱植民地過程は、在日朝鮮人文学に独特の欠損を刻みつけている。(p346)


ここでは、「独特の欠損」とは、近代文学としての全体性を欠いている、というようなことを指している。
それは、「特殊な脱植民地過程」、つまり植民地であった朝鮮民族の側が一方的に血を流すことによって行われた脱植民地過程であったことに起因する、とするわけである。
ゆえに、それは次のような認識と表裏である。

日本人に貸与された全体性とは、たかだか<欠損を持ちえないという欠陥>の消極的な発現にすぎない。それは完全性とは似て非なるものであり、たんに己の欠損について対象化することのできない歪んだ眼鏡によって外界を見ているにすぎないのである。(同上)


そして、次のように続けられる。引用が長くなるが、重要な箇所だと思うので、もう少し書き写す。

特殊日本が通過してきた例外的な脱植民地化過程が旧帝国主義人たる日本人をそこに立たしているのだ。それを仮借なく見つめたうえで、旧植民地文学の<非全体性>を正当に位置づけねばならない。共通の歴史の傷を表と裏の両面から負っているのだなどとものわかりのよいことをいっても仕方がない。また彼我の欠損はあたかも鏡像のように互いを映しだしているなどと倒立した認識を語ることも間違っている。冥い断裂を凝視せねばならない。今もかつても。不幸な植民地支配を幸運にもわれわれは血を流すことなく脱却することができた。不幸とか幸福とかいう感受性は、流血の記憶がもしあれば、産まれようのない感情であるだろう。血は充分すぎるほどに旧植民地においてだけ<一方的に>流されたのである。(p346〜347)


ぼくなどは、すぐに「ものわかりのよいこと」を口走りそうになるのだが、著者の思いが、そうしたところとはまったく違う強度から発していることが分かるだろう。
『冥い断裂を凝視せねばならない』のは、そのことだけが、いわば愛情の実現を可能にするからだ。
眼前の他者の記憶と時間を、その生を共有することの不可能性を感受することで、この世界に他者が存在することの重みと、この生の深い手触りを得ようとする欲望(愛情)が、そこには脈打っている。


こうした著者の意志が、もっとも鋭く対立するもの、それが本書ではおそらく、「仮死」という語によって指し示される。
語ることの暴力性、他者と関係を深く切り結ぼうとすることの暴力性を踏まえたうえで、それでもなお満身創痍となってでも語り続けることが選択されるのは、ひとえに著者の愛情の強さのゆえだとも思えるが、その力を現実に著者に与えたのは、言葉をみずから喪うこととしての「仮死」への誘惑という「最悪の暴力」(デリダ)に抗しつづける、二人の偉大なサバイバーでもある他者の存在であったらしい。
金石範と金時鐘

沈黙か言葉か。
 仮死から蘇るか断念に墜落するか。
 金石範と金時鐘が示している原理はここにかかる。心を閉ざし闇のなかにうずくまるか、それとも、全的な文学の貫徹に向けて自らを鼓舞しつづけるか。中間はない。いや、もちろんあるのだろうが、少なくとも彼らはそこには安住していないのだ。彼らが安住していないということが、わたしを、本書に向かわせた最大の脅迫であったともいえる。(p404)


正直なところ、ぼくは著者の考えや感覚に、全面的に同意するものではない。
金石範、梁石日という二大「マッチスモ」の作家を称揚する反面、李良枝の作品に対する評価が低いことに端的にあらわれているように、どこか男性主義的な面を抜け出せてないのではないかという、漠然とした感想がぬぐえない。
じつは、ここにあげられている厖大な「在日朝鮮人文学」の作品のほとんどを、ぼくは読んでいないのだが、それでもこの本の記述自体から、そういう危惧が浮かんでくる。そこに見られるような、この文学の「マッチスモ」の傾向を、著者は自分の問題でもあることとして、批判する地点に立てているだろうか(李静和のテクストへの綿密な検討にも関わらず)?


だが、そうした問いを引き受けるべきなのは、むしろ批判者である、ぼく自身だろう。
というのは、この領域において、これほど深く愛情をこめて他者と関係を切り結ぼうとした書き手を、ぼくは他に知らず、継承するにせよ批判するにせよ、その人への応答は、読み手自身の何らかの(関係の)実践を通してしか成り立たないだろうと思えるからである。