「加害の自覚」が開くもの

先日案内した以下の番組について、簡単に感想を書き、あわせて少し考えます。


探検ロマン世界遺産スペシャル 記憶の遺産 アウシュビッツヒロシマからのメッセージ』
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080529/p1



ひとくちに言って、素晴らしい内容だったと思う。
前半の「アウシュビッツ」をとりあげた部分も重厚な内容だったと思うが、ここではとくに後半の「ヒロシマ」の部分について書きたい。
ヒロシマ」といっても、大半は、「韓国のヒロシマ」と呼ばれるハプチョンという町の被爆者たちのことを描いていた。
じつはこの番組は、放映直後から局に「朝鮮人に偏向した内容だ」との批判が多く寄せられ、地上波での再放送が延期されていた経緯があったらしい。
ぼくは、それがどういうことなのか分からなかったが、今回番組を見てみると、「ヒロシマ」をめぐる日本の加害性(植民地支配・アジアへの侵略)の側面に深く踏み込んだもので、製作者の志の高さを感じさせる素晴らしい内容の番組になっていたと思う。
上記のような愚かな批判が寄せられることも、ある意味やむをえないと思わせるほどに、自省的・先進的な内容であり、そしてそればかりでなく、戦争と歴史の暴力によって傷つけられた人間の姿を、愛情をこめてしっかりと描いていた。
そのことが、もっとも素晴らしい。


この作品について、日本の植民地支配という事実の有責性に深く言及したものではない点に、不満というか限界を感じる人もあるかもしれない。むしろ、戦争という暴力がもつ普遍的な悪(あるべきでないこと)としての側面が強調され、それはもちろん正しいことなのだが、それによって日本の加害性の自覚という、いわば主体的な契機が薄められてしまうのではないか、という点。
たしかに、そういうことが言えないでもない気がするが、現状では、「戦争は普遍的な悪である」ということを「ヒロシマ」について語ること自体が、バッシングの対象になるという残念な現実があるわけであり、それに抗して、「ヒロシマ」の悲劇の(人間にとっての)普遍性のようなものを、抽象的でなく具体的な姿において提示したことの意義は小さくないと思う。この、「抽象的でなく」ということの意義については、後で触れる。



戦災被害者にとっての「被害」と「加害」

ここから、人間にとっての普遍性ということと、(たとえば日本国民として、というような)歴史のなかでの(倫理的な)主体性、位置との関係について考えてみる。
たとえば、この番組のなかで語られていたのは、広島の「原爆ドーム」が世界遺産に登録されようとしたとき、アメリカと中国が、それぞれ異なる理由から、それに反対した、という出来事である。アメリカの反対理由については、また別の話になるので、ここでは触れないが、中国の反対理由は、この登録が日本のアジアに対する戦争における加害責任を曖昧にする結果につながる、というようなものだったと思う。
中国という一国の政府が行った政治的な反対表明についてどう考えるかは、ここでは問わない。仮にその批判が妥当であったとしても、「ヒロシマ」の出来事がもつ普遍的な(人間全体にとっての)重要性に変わりはない、とは言える。
問題なのは、「被害」を受けた側の国民として、われわれ自身が、その「被害」ということと、「加害」ということとの関係を、どのように引き受けるか、引き受けないか、ということだろう。
ぼくは、こうした「引き受け」は、「日本国民」として規定されている、または日本社会の成員として生きている、われわれにとって重要なものだと考える。
以下、そのことを書いていく。


「戦争の被害は普遍的なことだから」ということは正論だが、そこに行く過程として、被害を受けた自国の(自己の、ということとは違う)加害性をきちんと認識しておくということは、やはり必要である。
だが何より強調すべきなのは、それは無論、被害を受けた当の人たちが要請されるべきことであるよりも、この人たちを含めた全ての戦争被害者に対して加害責任を負っている者としての、われわれ加害側の国民一般が要請されるはずのことだ、という点であろう。
そのことを押さえた上で、ここではまず、戦災による被害を受けた日本の民間(国民)の人たち(兵士の場合は、ここでは置く)にとっての、「加害の自覚」の意味について考えてみる。


まず言えることは、ここでは被害性と加害性とは、同じ次元にはない。前者(被害性)は、その責を誰に(どこに)負わせるべきかという複雑な問題があるとはいえ、この人たちは直接的な暴力(出来事)の被害者である。実はそれにとどまらないのだが、ここではそれだけを確認する。一方、後者(加害性)についていえば、それは一般に、日本の侵略戦争についての国民・有権者としての責任、ということである。
したがって、「被害性」と「加害性」とは、ここでは相殺されるような関係にはない。むしろ、「加害の自覚」ということが、自分たちの「被害の現実」をより明晰に自覚することにつながるのではないか。そのように思う。

戦争被害者を冷遇するもの

上に書いたような意味での「加害の自覚」ということは、とくに戦災による被害を受けた当の人たちやその遺族にとっては、受け入れがたい場合があるようだ。自分が確かに直接的な被害を受けている(しかし、敵によってか、自分の国家によってか、戦争によってか?)のに、なぜ間接的であるとはいえ、自らの加害責任を自覚せよと迫られねばならぬのか、誰でも理不尽な思いを持つだろう。
しかし、それが「受け入れがたい」ものになっている大きな理由は、被害を受けた人たち(たとえば、日本の被爆者や東京大空襲の被災者)自身が、日本の国や社会(無論、そこにはわれわれ一般国民も含まれる)から冷遇されてきたこと、その体験が重んじられてこなかったことにあるのではないか。
言い換えれば、自分たちの「被害」の事実、その重みが、この国と社会のなかで十分に認められ受け入れられてこなかったという思いが、この被害者(被災者)たちの根底にあると思うのである。
たとえば空襲について言えば、日本に限らず、西ドイツでも、戦後冷戦下で同盟国となったアメリカの戦争犯罪(無差別爆撃等)による被害を公言することはタブーとされてきた。日本の空襲の被害者たちにとっても、同様の事情があったはずである。もちろん、こうしたことは東側諸国においてもあったであろう。また、国の事情が戦争の被害者の処遇を著しく左右した例としては、イスラエルにおけるホロコーストのサバイバーたちへの冷遇という例をあげることも出来る。
だからともかく、そういう国や政府や社会のあり方というもの、その現実的・政治的な条件を明らかにして批判していくことが第一だと思う。そうすると、ここでの批判の対象は、日本が他国の人たちに対して行った加害行為を隠してきたものと、どこかで重なってくるはずである。ここは、漠然とした言い方しかできないが、ぼくはそのように考えている。
そのとき初めて、被害を受けた人同士が、国境や立場の相違による壁を越えて、本当に自分たちが失ってきたものを取り戻すという意味での「連帯」の可能性が、見えてくるのではないか。


「加害の自覚」が開くもの

ところで、戦争等において被害を受けた人が、(たとえば国民として)自己の加害性を認識することには、二つの意味がある。
ひとつは、そのことによって、自分の被害というものの、また自分の生というものの全体像を、より明確にとらえることが出来る、ということだろう。
「被害」ということのなかに、出来事の直接性と同時に、そうした全体的というか、総合的な視野を持ちえなくさせられるという、二次的な暴力の要素が含まれている、と言えるかもしれない。そして、この要素は、しばしば政治的・社会的に形成される。
ここで注意するべきことは、特にこうした二次的暴力について言えば、その暴力による「被害の自覚」を持つことは、きわめて困難であるはずだ、ということだろう。むしろ、「加害の自覚」を持つことの方が、はるかに容易な場合があるのだ。
その困難さの理由は、たぶん、自分の国家(庇護者)と自己との敵対的な関係を意識化せざるをえないからである。
他者に対する自分の国家の加害性を認識することは、こうした広い意味での自己の「被害」性の自覚ということ、それによる自分の生の本来的な(脱国家的な)可能性の回復ということの契機になるはずなのだ。


そしてこのことは、実は空襲の被災者のような「被害」の当事者でない、むしろ一方的な(アジアに対する)「加害」の当事者であるわれわれ一般の国民についてもあてはまるのではないかと、ぼくは考えている。それはつまり、われわれが、自ら気づけずに居るある種の「被害」性を、他者への「加害の自覚」を通して発見しつかみとる可能性がある、ということである。
他者への「加害の自覚」こそが、われわれに真の「被害」への認識を、したがって真の自立(独立)と連帯を可能にする。
ぼく自身がもっとも考えたいのは、このことだ。


ところでもうひとつの意味は、そのように自分の「被害」と、生についての総合的な視野を回復することをとおして、最終的に、戦争という暴力がもつ普遍的な悪についての認識を得る、ということではないかと思う。
戦争は、人間にとっての普遍的な悪(あるべきでないこと)である、という考え。
この普遍的な認識は、もちろん、そうした「生の回復」の過程を経る以前にも、抽象的な認識として、意義を持ちうるものだろう。だが多くの場合、人は知らず知らずのうちに、「(狭義の)被害者としての自分」という限定的な枠組みのなかに押し込められてものを見ている。その場合、抽象的な認識(真理)は、実際には、「私」に自己の加害性を認識せずにすませ、そのことによって現在の限定的(社会の枠組みに従属した)な生のあり方を自明のものに思わせ続けようとする社会的な圧力にとっての、好都合な道具にされてしまうのである。
つまり、そのようなたとえば「平和主義」は、人から真の「連帯」のための契機を奪う道具でもありうる。
自己の加害性の自覚による「生の回復」という手続きは、それを打破するためには、やはりきわめて必要性の高い手段ではある。
付言すると、ぼくは、この「手続き」があくまで、普遍的な認識や連帯のための「手段」にすぎないのだということを、どこかで強調する必要があると思っている。だが、そのことをあえて言う資格があるのは、この「手続き」を真摯に遂行する意志をもった人だけであろう。