『フリーター論争2・0』

フリーター論争2.0―フリーターズフリー対談集

フリーター論争2.0―フリーターズフリー対談集

杉田 (前略)わが身を守ろうとする自己保存の欲求は、自然なものだから。変えていくにしても、その自然な感覚の部分に根付いたものでないと。抽象的な正義とか平等を言うだけだと、きついかもしれない。だから、外圧とともに、自力で内圧をどう高めるかが大切だと思うんです。内圧を高めることで初めて外圧をチャンスに変えられる。城さんの実践はすでにそういうものかもしれませんが。


雨宮 ただ、何かをすでに持っている人たちは、あまりにも無関心ですよね。自分の加害性、何かを犠牲にしているという自覚が、本当にナチュラルにない。ナチュラルにフリーターをバッシングする。それはちょっと理解できないな。


杉田 ぼくは、城さんの言う「主体性のなさ」は、年功序列的システムの中にいる人たちだけじゃなくて、フリーター的な人々の中にもかなり転移していると思う。(p109)


ぼくには、ここで雨宮さんが言っていることと、杉田さんが言っていることとは、切り結んでいると同時に、どこかで行き違っているようにも思える。


杉田さんの言っていることを読むと、マジョリティである正社員的な人たち自身が「主体性」を獲得することによってこそ、フリーター的な人たちとの連帯、そして最終的には雇用や労働をはじめとした社会の枠組みを変えていく(ことによって、自分たちの生活をも改善する)ことが出来るのだ、という話から、「主体性のなさ」はフリーター的な人たちの中にもあるのだという批判へと、話が展開している。
つまりそれはいずれにせよ、「マジョリティである私」は、主体性を奪回することなしには、他者への共感を真に持つことはできず、したがって、真の連帯も不可能なはずだ、という主張である。
杉田さんは別の箇所で、

マジョリティの人が自分たちの感覚の延長上でフリーターの問題を考えられる回路がない限りは、内側から色々と解体していけない。そうしないと、逆に鬱の人や女性の声も十分に響かない気はするんです。(p102)


とも言っていて、「マジョリティである私」(フリーターであっても)の「主体性」の獲得ないし奪回が、絶対に重要なこととして考えられているのは、よく分かる。
杉田さんが、このことにこだわるのは、それなしには雨宮さんが言うような『自分の加害性、何かを犠牲にしているという自覚』を、ほんとうには持つことが出来ないはずだということ、つまり現実的な力や意味をもった連帯(共感も)は不可能だという思いがあるからだろう。


雨宮さんが言っているのは、原初的な倫理的な感覚のようなものだと思う。
苦しんでいる人がいたら、自分の構造的な加害性や有責性など考慮しなくても、それを助けようとする、あるいは助けられなかったことに苦しむのが、当たり前の感情なのに、それを感じる契機をまったく持っていないかのような人たちに対して、雨宮さんは『ちょっと理解できない』と言ってるわけである(雨宮さんは、そうは言ってないんだけど、ぼくはそう読んだ。)。


杉田さんは、それに対して、そうした原初的な倫理的な感覚(感情)を持つための条件のようなものがあり、それは「主体性」だと言ってることになる。
だが、そうなのかと、ぼくは考える。


杉田さんの問いは真摯である。
それ以上書いても仕方がないので、ここではそれ以上書かないが、その問いと批判(もちろん自己批判でもある)は、まったく正当なものだと思う。
だが、雨宮さんの言うような感覚を得る(取り戻す)ための条件として、杉田さんの問うているような問い、ここでたまたま引かれている語を用いれば「主体性」の回復ということが、たしかに不可欠なことであるとしても、それで十分ということではないだろう(もちろん、杉田さんもそう考えてるわけではないと思う。)。
いや、というより、杉田さんの真摯な倫理的な問いと、雨宮さんの語っている感覚・感情との間に、なにか重要な差異がある気がするのだ。
そしてそこにこそ、「抽象的な正義とか平等」というものが、関係しているのかもしれない。