憲法は誰のものか

東京新聞に載った、宮崎駿氏の憲法に関する発言を読んで、違和感をもったので、特に書いておきたい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013072702000120.html




初めに断わっておくが、日本が過去の蛮行・愚行を繰り返さないために、憲法改悪に断固反対すべきだということには、勿論まったく同意見だ。改憲反対の立場を、この時期(参院選の直前だったと思う)に鮮明にされた宮崎氏の決断には、その職業上の立場を考えても、心からの敬意を表するのにやぶさかではない。


だが、それでも違和感をもつ理由は、発言のなかで「自分たちの憲法」という言葉が用いられていることと、その文脈とに関わっている。
戦争の放棄をうたった日本国憲法は、たしかに「国民」を主権者であると規定している。「自分たちの憲法」という言い方には、それ自体では何の問題もないと思えるだろう。
しかし、記事の中に示されている、

「日本人であるというだけで、あの時代に加担したことになる、無実な人間を描くのは不可能。ゼロ戦をあがめるのも、否定するのもつまらない」
「一つの仕事を一生懸命やれば、マイナスの部分が生じることもある。それでも精いっぱい力を尽くして生きるしかない、ということを描きたかった」


というような、先の戦争についての宮崎氏の認識や思いと結びつけて読むなら、この表現からは、排他性のようなもの、もっと正確に言えば、憲法と戦争に関わる歴史性を否認しようとする氏の意志がうかがわれるように思えるのである。


哲学者の久野収は、1960年代半ばに書かれた「「安全」の論理と平和の論理」という秀逸な論考のなかで、日本国憲法の平和主義は、憲法の全体的・構造的特色として捉えられねばならないと明言し、次のように書いている。

第九条の解釈だけにとじこめては、憲法の平和主義はとうてい実現さるべくもない。一例をあげれば、憲法国民主権の原則をとってみても、「前文」をみれば、政府の行為によってもう一度、戦争の惨禍が引きおこされるのを何としても予防しなければならぬという、ふかい決意の帰結として宣言されている。国民主権はまず、戦争防止の決意によって、基礎づけられているのである。また「前文」にでてくる「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というコトバ以下の文章も、その「諸国民」の中には、当然わが国民がまず第一に含まれているという読み方をしなければならない。憲法の平和主義が他国依存主義であることの証拠に、このコトバをもちだすのは、だからただしい解釈であるとはいえない。(「「安全」の論理と平和の論理」 『久野収セレクション』(岩波現代文庫)p197)


僕は、久野の考えにすべての点において同意するものではないが、日本国憲法が、平和への願いをその根幹としていること、そしてその実現のための努力の要請が、他のどの国民よりも日本国民にこそ向けられているという解釈には、深く同意する。
ただ僕に言わせれば、それはむしろ平和への責務であり、被害者・犠牲者となった他者たちからの命令である。巨大な戦争の被害を引き起こした責任が、他のどの国民にもまして大きいがゆえに、われわれはこの平和への重大な責務を負っているのであり、その責務を果たすことにおいてのみ、われわれはまた普遍的な役割を果たしうるのだ。
国民主権」という言葉は、しばしば、日本国憲法の限定的な性格、つまり本来は「人民」と訳されるべきだった「people」という語をあえて「国民」と訳したことで、基本的人権が保障されるべき対象として日本国籍保有者しか表さないというような、現行憲法の欠点の指摘として持ち出される。もちろん、こうした指摘は妥当だと思う。
だが同時にこの言葉を、(久野も示唆しているように)「主権者」として規定された存在(集団)が、平和の実現のためにどのような社会を構築し、また対外的にも他のどの国民よりも以上に努力すべきであるかを語った、他者からの命令を示す表現として捉えるなら、そこには若干違った意味合いが認められるのではないか。


日本国憲法の成立と受容は、日本が引き起こした侵略戦争によって、二千万ともいわれる膨大な人命が失われた事実に根差している(この膨大な人命のなかに、僕はもちろん日本人の兵士や民間人を含めているが、それはあくまで戦争被害者・死者という普遍的な集団の一部という資格においてにすぎない。この点でも、宮崎氏の言い回しには、やや違和感を抱く)。
この膨大な数の死者、あるいは被害者、またとりわけ侵略や虐殺を被る立場になった人々の、いわばかけがえのない命を土台として、その重さに命じられるようにしてわれわれが引き受けたのが、この憲法だ。
平和憲法とも呼ばれるこの憲法は、憲法の改悪を叫ぶ人々が言うのとはまったく別の意味において、「他者の憲法」なのであり、そうである限りにおいてのみ、この憲法は国境を越えて「役に立つ」(宮崎氏)普遍性を持ちうるのだと思う。
このように考えるとき、上記の記事中にあらわれた宮崎氏の「自分たちの憲法」という言葉、またそこで語られている歴史についての考え方には、この「平和憲法」の内実とどこか大きく食い違うところがあるように思えて仕方がないのだ。


ただ誤解してほしくないのは、以上のように述べたからといって、僕が憲法改悪阻止、戦争遂行阻止の人民戦線的なものを否定しているわけではない、ということである。
今ほど、この目的に向かっての、できる限り幅広い連帯が必要な時期はないだろう。
だが、むしろそのためにこそ最も肝心であるのは、憲法の平和主義の理念が、誰によって要請された、誰のための約束であるかという根本のところを、決して揺るがせにしない姿勢だと思う。
それは、あの侵略戦争とその時代との犠牲になった無数の他者に対しての、約束なのだ。また、憲法の改悪によって再び犠牲者とされるかもしれない、現在と未来の他者たちに対しての、それは約束でもある。
この根本を忘れたとき、人民戦線の試みは、現在そうなりかけているように無残に挫折し解体してゆくか、もしくは(これも別の意味で現実化しつつあると言えそうだが)結局は「純粋国民限定戦線」のようなものとしてファシズム体制の一翼を担うことになるかの、いずれかだろう。
とりわけ民主党政権成立以後の過程が、われわれに与えた教訓は、そのことではなかったろうか?同じ過ちをさらに繰り返す余裕は、もうわれわれにはないはずだ。
戦争を阻止するための連帯は、戦争を根本のところから拒む土台の上にしか生まれない。いま求められているのは、単なる数合わせのような虚妄の拡張ではなく、一人一人がこの土台に立ち返ることで、連帯を、真に権力と暴力との支配に対抗しうるものにしていくことである。
宮崎氏や彼の作品のファンの人たちにも、作品を通して、是非そのことをよく考えていただきたい。




追記 : 実は後になって、この映画『風立ちぬ』についての以下のような記事を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

とても興味深い内容だったが、僕自身は作品を見ていないので、特に意見を書かないでおく。