「リスクをとれ」という正論の危うさ

ここ二日間、NHKテレビで深夜に、『世界に学ぶ! テレビの底力』という番組が放送されていた。
BSでやってる『ネクスト』という番組のスペシャルだったらしい。
たいへん面白い番組だったのだが、疑問に思ったことがあるので書いておく。
番組を見てなかった人にはよく分からないと思うが、ご了承ください。


この番組では、二日にわたって、世界各国のたいへん刺激的なテレビ番組が紹介された。
それを見て番組として出されたひとつの結論は、「日本のテレビ制作は、リスクをとろうとせず、無難な報道ばかりをしようとする。作り手は、もっとリスクをとれ」といったようなことであった。
番組の制作に直接関わる人たちの意見としては、これは危機意識から来る、強く自己批判的なものであり、賞賛するべき意見だ。とくに、番組のコメンテーターのなかでは、市川森一室井佑月など、業界内部といえるような立場の人から、こうした意見が聞かれたということは、他の番組ではあまりないことなので、それだけでもこの番組には意義があったといえるだろう。
たしかに、紹介された海外の番組のいくつかは、事なかれ主義の日本のテレビでは考えられないもので、日本のテレビ界が学ぶべきものも、そこには少なくないだろう。
だが、他人(テレビ番組を作る人たち)に対して「リスクをとれ」というこの言い方は、その言葉が発せられる位置によっては、欺瞞的になりかねないものだと思う。


ぼく自身は、自分が日常の生活のなかで、社会正義のようなことに関して、「リスクをとる」(自分の利益を賭して、そのために何かを行う)ということが出来るだろうかと、自問せざるをえない。
だから、いくらテレビ番組を作ることが公共に関わる大事だといっても、他人(現場の働き手)に、「生活を賭けよ」というふうには、言いにくい。まず、このことがある。
もちろん、「リスクをとらない」ことによってテレビ報道等が歪められ(それは現実に、多々あると思うが)、そのことによって実害を受けている人が、そのように作り手に向かって言うことは正当である。
そして、自分が当事者でなくても、そうした被害者を生み出しかねないという観点から、もしくは他の社会的な視点から、あるいは個人の信念とか職業倫理といったものから、「リスクを恐れず仕事をせよ」ということ自体は、自由である。
ぼくはしようと思わないが、それを「しない」ということにも、何らかの欺瞞性はあるかも知れない。だから、それをする人を非難しようとは思わない。
しかし、ぼくが言いたいことはそういったことではなく、「リスクをとれ」と簡単に言ってしまうことによって生じる別の効果、つまり批判し対決するべき真のものが隠蔽されるということ、それもそれが露呈すれば「リスクをとれ」と言っている当人の権益が損なわれかねないようなものが、隠蔽されるのではないか、という疑いである。


一般的に、そうした構造みたいなものがあると思うのだが、今回の場合について考えてみよう。
ぼくが思うに、日本のテレビ番組が、「リスクをとる」作り方、報じ方が出来ないのは、根本的には会社や組織の構造に問題があるはずだ。
そう思うひとつの理由は、映画監督の森達也と作家の森巣博による対談本『ご臨終メディア』(集英社新書)のなかで、テレビ制作の現場について、次のように語られてるのを読んだことである。

森巣  今、制作現場に、ほとんど社員はいないわけでしょう。


森   テレビはそうですね。ほとんどというのは極端だけど・・・。


森巣  下請け会社が番組を制作する。


森   テレビ局の場合、放送される番組のうち、たぶん七割ぐらいは、外部発注です。ただし報道系の番組は、自社による制作、つまり局制作が比較的多い。ところが、純然たる局制作の報道番組のスタッフ構成も、半分近くは外部からの出向、派遣社員、もしくは、フリーの人間です。だから局の社員で実際に制作に携わっている人は、相当に少ないと思ったほうがいい。


 森巣  正社員は何をしているんですか。


 森   総務とか営業、経理などは社員の割合が高いでしょうね。制作現場についても、やっぱり社員は、一応偉いところにいる場合が多いですね。プロデューサーだったり、記者だったり。外部からの派遣社員も局員も、始まりは同じAD(アシスタント・ディレクター)だとしても、その待遇は天と地ほどに違います。
    僕も、テレビの仕事に就く前、いろいろな業界で、たとえば印刷業界でも働いたりしましたから、出版社と印刷会社の関係のような、ある種の川上川下の構造というのを一応知ってはいたけれど、テレビの世界には驚きました。この差は圧倒的です。仕事の内容は同じなんです。ところが待遇は、びっくりするぐらい違います。


 森巣  収入もまるで違うでしょう。


 森   全然違います。まあ制作会社の待遇が劣悪であることも確かだけど、局のほうが優良企業になりすぎたんだと僕は思います。とにかく給料は洒落にならないくらいにいい。(p22〜23)


こうした話から想像されることは、何かリスクが実際に生じた場合に、その責任から来る損害をまともにかぶるのは、現場の、下請けの人たちであろう、ということだ。
上層部の人間は、給料が一部カットになるとか、出世レースに多少響くとか、そういったことですんでしまう。だが、下請けの、立場の弱い人たちの場合、番組が打ち切りになれば明日から生活に困るという人もあるだろう。
「何か起きた」場合、上の人間が現場の人の生活を守らないだろうと、現場の人たちが思えば、はっきり言って誰も(自分の生活をかけてまで)「リスクをとろう」なんて思わない。
いや、いるかも知れないし、そうする人は立派だとは思うが、そういうことが問題ではないということである。


つまり、本当に批判されるべきなのは、放送の現場にあるそういう歪みや矛盾であって、それが続いてる限りは、まともな報道や番組作りは、基本的には望めないはずなのである。
だから根本的に必要なのは、現場の人間が勇気をもった選択を行えるような条件が保障されるように、組織のあり方を変えていくということのはずである。
そこを不問にしたままで、現場の人間個々に向かってリスクをとることばかりを声高に要求するということは、根本的な悪を隠してしまうための自他への方便にすぎないのではないか、ということだ。


「自他への」とは、どういう意味か。
上の本で語られてたような構図は、別にマスコミの世界だけでなく、今の日本の社会のどこにでも、多かれ少なかれある不条理、不正義だろう。
マスコミ業界は、自分がそういう不正義の構造を、しかも極端な形で有してるのだから、日本社会の不正義に本当には切り込めないのは当然といえる。
だから、「テレビを変えよう」と思うなら、この業界の体質を変える以外にない。
ところが、それを言おうと思うなら、そう主張する人間は、主張する自分自身がそういう社会のあり方を変えていく主体になることを引き受けねばならない。社会全体をそのままにして、マスコミだけを変えるということは、ほんとうは絵空事だからだ。
そうすると、それを言おうとする人は、現在の社会のあり方、そのヒエラルキーに対する批判者、敵対者とならざるをえない。つまり、自分がもっている何がしかの特権を手放すほかなくなる。
そうなるのが怖いので、人は(他人に向かって)「リスクをとれ」と強いて済ませようとするのである。
ぼくにはそう思える。


「それでは、社会全体を変えないと、マスコミはよくならないということになるじゃないか」と言われるだろう。
本当のところは、まさしくそうなのだ。
「マスコミを変えていく」というのは、そういうことなのだ。
たとえば韓国の場合、かつては軍事政権や財閥につながった大新聞がマスコミ界を独占していたが、民主化運動の過程でハンギョレオーマイニュース等の独立系メディアが誕生していったことが、よく知られている。それらが成立できたのは、大新聞を退社して新しい会社に移った記者たちを、多くの市民が募金等で支えたからである。つまり、報道を作っていく主体はメディアではなくて、民衆だった。
そして重要なことは、そのような独立系メディアが大きくなることによって、旧来の大メディア(朝鮮、中央、東亜の三大紙など)の側も変わらざるをえなくなったということである。
要するに、社会全体の仕組みを変えることと、マスコミ産業のあり方を変えることとは不可分のもので、それをやらない限り、根本的には報道のあり方は変わらないはずなのである。
これは、制作等の現場にいる個人が「リスクをとる」かどうかで決まるような問題ではない。


イスラエルの番組

社会の構造を自分が主体になって批判し、変えていくという難事を忌避するために、問題を(他人が)「リスクをとる」かどうかといった個人倫理的な次元にすり替えようとする態度。
これと似たような構造を、実は、この番組で紹介されていた海外の番組にも見ることが出来た。
それは、イスラエルのテレビ番組で、イスラエルユダヤ系のジャーナリストが「突撃取材」というか、「泊めてください」みたいな感じで占領地区のパレスチナ人の家に押しかけてホームステイし、ぶつかりあいの末に、人間同士の「相互理解」を深めて帰ってくるという感動物であった。
占領してる側の人間が、占領してる国のテレビ局の取材で、占領されてる側の家庭を訪れて、「本音」で交流する、というわけである。もちろん、その様子は、すべてイスラエル国内に放映される。
このイスラエル人ジャーナリストは、体験の結果、「アラブ人も同じ人間で、そんなに怖くないことが分かった」そうである。
番組の最後には、このジャーナリストとホームステイ先のアラブ人が握手する場面が写っていた。もちろん、ここでアラブ人の側が握手に応じなければ、アラブ人に対する反感の世論は爆発しかねないだろう。


要するに、「相互理解」や交流を不可能にしてるような現実の「壁」、占領という暴力の構造(非対称性)を不問にしたままで、またその構造を自明なものとしてしまう目的で、人間同士の「本音のぶつかりあい」が演出され、「相互理解」の物語が描かれる。
こうした番組は、イスラエルのなかの「良心的」な人たちにとっては、占領という事実の暴力性を否認する格好の免罪符になるだろうし、強硬派にとってもアリバイのようなものになるだろう。
一方、取材されたアラブ人の側には、テレビカメラを突きつけられてる以上、「相互理解」しない以外の選択肢はないのである。
こんなひどい「テレビの暴力」もあるまい。
本当に相互理解を望むなら、イスラエルのジャーナリストがするべきことは、一見過激な「突撃取材」などではなくて、「占領に反対すること」以外にないはずだ。
占領こそが、相互理解を不可能にしている、崩すべき唯一の「壁」なのだから。
ところが、こうした番組の見かけの「過激さ」は、じつはその現実の「壁」を直視(対決)せずにすませるために働いているものなのである。


多くの日本の視聴者は(じつは、ぼくもそうだったが)、イスラエルのこの番組のような、見かけの「過激さ」(リスクをとる勇気)に関心し、イスラエルのリベラル民主主義に対して賞賛したい気持ちにさえなるだろう。
だが実際には、こうした(個人的な)過激さや勇気といった見かけ、物言いがはらんでいるのは、人々の交流や自由な判断、行動を制限している社会の歪みという名の、根本的な「壁」を見ずにすませようとする意図なのである。
本当に直面すべき現実の不正義、構造を隠蔽・回避するために、見かけの「正義」を求める「過激さ」が際限なく要請されることになる。
自分たちの日常を構成している不正義を直視することを(自分の社会的な位置の保全のために)避けたいという人々の気持ち、後ろめたさが、見かけの「正義」や倫理性(勇気)へのマッチョ的な狂熱を、際限なく増幅させるのである。
イスラエルの社会が持っているらしいあの病的な傾向は、もちろんわれわれにとってはまことに馴染み深いものだ。



日本のテレビ・マスコミの問題に戻って言えば、第一に批判されるべきは、リスクをとろうとしない個人ではなく(もちろん、大マスコミの社員のなかには、批判されるべきひどい人たちもいるだろうが)、(とりわけ末端の)個人にリスクをとる選択をさせないようにしている組織や企業の構造であり、ひいてはわれわれの社会全体のあり方である。
マスコミ業界だけではなく、われわれの社会、日常の全体をおおっているこの構造、下請けや現場の働き手だけを使い捨てのようにして、組織全体の利潤と安定だけを確保していくような構造の変革という大枠のなかで行われるのでなければ、報道や番組のあり方をより良いものに変えていくことは不可能なのだが、その事実に触れないで済ませようとする魂胆に、「リスクをとれ」という威勢のいい言説は、うまくマッチしてしまうのである。