根本的なこと

イスラエル総選挙:右派躍進 警戒強めるアラブ 「共存否定」失望あらわhttp://mainichi.jp/select/world/news/20090212ddm007030037000c.html

ロンドン発行のアラビア語アルクッズ・アルアラビのアトワン編集長は11日付同紙で「アラブにも国際社会にもネタニヤフ氏が望ましい」と強調し、「それによりパレスチナとの共存を望まないイスラエルの本質がより際立つことになる」と皮肉を込め解説した。


最後に「皮肉を込め」と形容してあるが、語っている当人が「これは皮肉です」と言ったわけでもなかろうから、記事を書いた記者の判断による注釈だろう。
たしかに、「右派の指導者の方が望ましい」という言葉は、皮肉であろうとは思う。
だがその皮肉は、今回の選挙で「和平」を口にする与党側が多数を獲得できなかった事実に向けられているというより、そもそも現与党と右派勢力とのいずれかという選択肢しか事実上ないというイスラエルの政治・社会の状況の方に、より深く向けられているはずである。
つまり、「パレスチナとの共存を望まない」のは、ネタニヤフもオルメルトその他(和平派)も同じことだ、ということである。


まあそういうことは、この問題に強い関心を寄せてる人の多くが感じることだろう。
だが重要なのは、「和平」を口にする与党側と、「右派勢力」との差異が有名無実なものでしかないということを、どんな根拠において言えるか、ということである。


それは、「与党側の言う和平が、実際には占領と隔離政策の国際的な既成事実化を推進するだけの欺瞞的なものでしかないから」というだけのことではない。この言い分はたしかにその通りなのだが、そうした構造的・論理的な根拠からだけ、「与党側と右派勢力との対置は虚妄だ」と言えるのではない。
この対置が虚妄であり、ここで語られるような「和平」が偽のものでしかないと言える(言うべき)なのは、たんにこの「和平」の言説によって、占領や封鎖や隔離といった構造的暴力(物理的暴力の根)が温存されるからという論理的な理由によるのではなく、現実に今回の侵攻によって1400人の虐殺と破壊を行った当事者が、現与党側であるという事実的な理由によってなのである。
それは、この侵攻(虐殺)の理由が「選挙目当て」という軽薄なものであろうと、「テロからの正当防衛」という右翼(右派)的なそれであろうと、選ぶところはない、ということでもある。


今回の虐殺を決断し遂行した当事者が、他ならぬ「和平」の主張者たちであったという動かせない事実によってこそ、イスラエルによるパレスチナへの継続的な暴力が、「和平派」と「右派」との共犯的な行為であるという現実が証明されている。
それはつまり、この両者の対立(対置)を意味あるもののように語る言説(ということは、「和平」の意味を称揚する言説でもある)が、この暴力の事実性の認識(自覚、記憶)を希薄なものにしたいという欲望に支えられていることを明かしてもいるのである。


「口先の和平は、暴力の構造的な根を残すから欺瞞なのだ」とか、「右派の勝利はより大きな暴力を生み出す可能性が高いから、より危険なのだ」といった推論にもとづく議論は、誤りでも重要でないものでもないにしても、現実に起きた(起きている)事柄の重さと責任への認識ほどには、根本的なものではないのである。