神話を守り続ける者たち

時代の風:原発事故と生肉食中毒=東京大教授・坂村健
http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20110522ddm002070092000c.html

世に絶対安全がない以上、やるかやらないか、どこまでコストをかけるかということは、事故想定確率とその被害額を掛けた値と、社会的なものまで含めた経済のてんびんによるしかない。原発について議論するなら、その使用済み燃料処理コストまで含めたライフサイクルコストの不明朗さをむしろ突くべきだ。


この人の言ってることは、前回のエントリーで紹介した文章に比べると、一見まだまともに見えるけど、根本的なところで詐術的な事実誤認を示している。



日本人が「安全神話」を手放さなかったことが、今回の事故の原因だなんて抽象的なことを書いてるけど、「安全神話」を流通させ押し付けたのは、どこの誰だ。
上に書いてるような合理的な判断の機会を人々から奪った主犯は誰なんだよ。
政府や電力会社、それにマスコミや「専門家」連中が、金と権威と権力で、「神話」を信じ込ませたんだろ。
それを国民性のせいみたいにして、「一億総懺悔」による国民性の改変みたいな話に持っていこうとするのは、敗戦の時と同じで、政府や権力者の責任を曖昧にして今までの権力構造を変えずに済ませるためのレトリックだよ。
たとえこの学者さんが意識してなくても、そういうものとして、こんな言説は働いている。


原発は安全です」という宣伝を信じ込んだ地元住民が悪いんじゃなくて、まずそういう嘘の情報を押し付けて人々を騙した国や企業や役人や学者の罪を問わなければいけない。
「神話」を信じ込んでしまうような心性を変えるのは、そういう手続きを踏むことなしには不可能だ。
つまり、権力の問題をスキップして、「リスクを受け入れる社会への成熟を」なんていうのは、神話の中味を(安全神話からリスク共有神話へ)変えて、権力を握り続けたい連中のインチキな言い分に他ならない。


日本人がリスクの現実性から目を閉ざしてきたといえるのは、「国家による暴力」のリスク、社会を現実に支配している権力による被害のリスクに関してだけだ。
原発そのものや、原発事故による被害は、そういう国家や権力機構によってもたらされた暴力だ。
そして、この種類の暴力(リスク)は、多数者としての我々自身が、権力構造との同一化を通して、弱者に及ぼすものでもある。
権力とは、パワースーツのようなもので、私は日本国民という権力を身にまとうことで、外国人に多大な被害を及ぼせるし、男性という権力と同一化して振舞うときには、女性に対してひどい被害を与えることが出来てしまうのだ。
原発についても、それは同じ。「子ども」や「地元住民」や「原発労働者」に対して、ぼくたちは国家や権力構造との同一化を続ける限り、圧倒的な加害者であり続ける。
「無知の罪」という言葉は、この意味においてだけ、ぼくたちの自己批判の言葉として語られるべきなのだ。


いまするべきことは、権力とのこの同一化を断ち切って、ぼくたちが代行してきた「国家による暴力」のリスクから、被害者たちを救うことである。
国家から独立した人間として、国家と企業とその協力者たちの責任を問い、そうすることによって、どんな体制(神話)のもとであろうと弱い立場の人々が犠牲になることを阻止することだ。