『苦海浄土』

やっと読了。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

この滅茶苦茶有名な作品を読むのも初めてだし、水俣病とその患者さんたちのことについても、水俣の運動の経緯についても、詳しいことを何も知らなかった。
それで、まだ読んでいないという人には、ぜひ読むことをすすめたい。
この作品については、議論されるべきことは山ほどあり、そういう山のような議論がすでに積み重ねられてきただろうが、それでも今なおこの本は、色々な意味で必読であると思う。


巻末に付された解説で、渡辺京二は、この作品が「聞き書き」ではなく、「ルポルタージュ」でさえないことを強調している。
読んでいると、そのことは段々分かってくる。
そのことをどう考えるかは、難しい問題である。なにしろ、登場人物は、おそらく実在の人たち(患者たち)であろうから、文学であるからといって、その発言の内容を創作してもよいのかどうかということは、やはり議論になるだろう。
ただ、そこに問題があるだろうことを押さえた上で、またその上でこそ、同時に認めざるを得ないのは、ここに書き付けられている作者石牟礼の、表現の真実性ということであり、その真実性が患者たち個々との関係のなかから、少なくとも水俣という土地と彼女とのつながりのなかからもたらされているに違いない、という感触を、この作品を読みながら持つということである。
このことは、「聞き書き」を思わせる内容についての表現倫理上の問い(疑問)を免責できるということではない。決して免責できないにも関わらず、あるいは免責できないが故にこそ、この作品のなかにひとつの「真実」、それも倫理的な真実があることを認めざるを得ないだろう、ということである。
要するに、この作品は、作者石牟礼が水俣病をめぐる現実によって強いられた、創造力の産物であると思う。その意味で、この作品の言葉は、作者と現実との関係の真実をたしかに表現していると思うのである。


1972年の日付のある旧版文庫版への「あとがき」のなかで、作者は、自分の作品を「浄瑠璃」に比しているが、まったくその語りの魅力は、日本の中世の文学作品を思わせるものである。
近代以後の文学で、これに匹敵するものをあげるとすれば、中上健次の作品以外、ぼくには思い当たらない。
その魅力はとくに、「死旗」の仙助老の姿や、「ゆき女きき書き」の描写に示されている。
そこで描かれているものはあえて言えば、「悪」を含んだ生の力、というふうなものである。無論、水俣病とか公害という悪を肯定している、という意味ではない。悪をも肯定することによって、生の本来の力において、作者は公害のもたらす「生の否定」に対抗しようとしているかに見える、という意味である。
この作品の描写、とりわけ患者たちと家族、また彼ら彼女らと作者自身の関わりを描いた箇所には、たしかに強い倫理性が感じられるのだが、同時にその生の世界は、悪の力をも見据え、悪をはらんだものとしての人間の生の極限にある倫理性のようなものを探し出そうとしている。
そう感じられる。
このことは、彼女の共同体論的な思想の力(それ自体は、じつは近代主義的なものだろう)を、裏切り、越えているようにも思う。



市民の世論が当事者を殺す

ぼくにとっては、本書の最大の魅力は、上に書いたような部分である。
だが無論、この本は、水俣の患者や漁師の人たちが体験し、そのなかで周囲からの孤立を経験することにもなった、「闘争」の経緯の記録という面も持っている。
この面から言っても、今日、この本が提起するものは、たいへん重いだろう。
まず押さえておかなければいけないのは、水俣という土地における、水俣病の患者たち、公害の経済的な被害者でもある漁師たちの孤立という事情である。
昭和34年に起きた、追い詰められた漁師たちによるチッソの工場への突入という事件が、大きな転換となり、しだいに「市民社会」から患者たち、漁師たちは孤立していく。
だが、そもそもこの土地では、チッソの存在はあまりにも大きく、抗議する被害者たちは、病気ゆえの差別ばかりでなく、会社にたてつく存在として、地域社会から次第に孤立していくことを余儀なくされる存在だったのである。

水俣病をいえば工場がつぶれ、工場がつぶれれば、水俣市は消失するというのだ。(p323)


したがって、本書の記述は、この事柄をめぐっては、追い詰められた者たちと、市民社会(の運動)との、絶望的な隔たり、むしろ対立関係を描かざるをえない。

漁民たちは、安保デモの拍手に羞らいと当惑をみせたまま、そのままつつみこまれて、水俣警察署前を通り、水俣川を渡り、第一小学校前の解散式に合流参加した。思えばそれはうつろな大集団であった。あのとき、安保デモは、
「皆さん、漁民デモ隊に安保デモも合流しましょう!」
とはいわなかった。水俣市の労働者、市民が、孤立の極みから歩み寄ってきた漁民たちの心情にまじわりうる唯一の切ない瞬間がやってきていたのであったのに。このとき"労農提携"、"農漁民との提携"、"地域社会との密着した運動"をかかげる自称前衛たちの日常スローガンは、数限りなく配り散らされ、道の上に舞う文字通りの反古であった。その安保デモの中に、市民参加者としてわたくしもまじっていたのである。(p253)


これは言わば、「市民化」していくことによって、患者たち、漁民たちを孤立させ、殺す方へと加担していく「運動」の変質、というより「市民参加者」である自分自身のあり方への、内部告発のようなものだろう。
こうした市民社会と、被害の当事者たちとの乖離は、水俣病公害病として認定されていくにしたがって、逆に深まっていく。

水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言い回しが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。(p335)


それはやがて、次のような患者の叫びを生み出すことになる。

「小父さん、もう、もう、銭は一銭も要らん!今まで、市民のため、会社のため、水俣病はいわん、と、こらえて、きたばってん、もう、もう、市民の世論に殺される!小父さん、今度こそ、市民の世論に殺さるるばい」(p344)


実際に、「水俣病対策市民会議」のメンバーとなって、患者たちを支える運動の前線に立った作者が書き記す、この経緯の記述が生々しいのは、「市民の世論」が患者(当事者)を殺すという構造が、われわれの社会では今もたしかに続いていると思われるからである。
これは決して、特定の町にだけ起きた事柄ではなく、ぼくたちの社会の、変わらぬ本質を指し示している記述なのである。