「右翼の暴力」

先日書いた映画『NAKBA』のなかで、こういう場面があった。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080501/p1


48年のいわゆる「ナクバ」の際にある村で起きた大規模な村人の虐殺事件について、「虐殺を行ったのは、ユダヤ右派民兵組織で、イスラエル正規軍は関与してない」という言い回しをする証言者が出てくるのである。
このような言い方は、この村での出来事に限らず、当時起きた蛮行を語る際に、イスラエルでは一種の定説のようになってるものらしい。
映画のなかで、有名な歴史家のイラン・パペ氏は、言下にこうした俗説を否定し、「実際は、正規軍も、右派民兵組織も、虐殺を行ったのだ」と述べていた。


このくだりを見ていて、やはり先日書いたNHK済州島4・3事件の番組のなかにも出てきた、「西北青年団」のことを思い出した。
西北青年団というのは、朝鮮半島西北部出身の青年たちが韓国で作っていた右翼(反共)団体である。
この地域は、日本の植民地になる以前からキリスト教がさかんであることで知られていたが、朝鮮が建国される際に、金日成の勢力は、この地に過酷な弾圧を行ったとされている。それを逃れて「南」にやってきた青年たちが、この団体を作り、4・3事件の際に済州島に送り込まれて、報復的な感情もあって、激烈な残虐行為を繰り返したことが伝えられているのである。
たしかに、そういう事実はあったのだろう。だが、「4・3」の残虐行為が語られる場合に、「西北青年団」の蛮行が常に強調されるひとつの理由は、実際にこの虐殺事件の首謀者であり、西北青年団をこの島に送り込んだ勢力、つまり韓国の警察や(後の)国軍、またもっと本質的な役割を果たした占領者であるアメリカの存在・加担の印象をいくらかでも薄め、この事件全体を、国民国家の権力や、大国との軍事的同盟関係による犯罪行為ではなく、38度線の向こうを出自とする民間の無頼のものたちによる、私的な報復の色彩が強い突発時、周縁的な凶事のように思わせ、また思い込もうとする意図が、そこにあることではないかと思う。


「ナクバ」の虐殺にしても、「4・3」事件においても、それはあくまで国家(および同盟国)による犯罪行為なのだが、それが「右翼」という名の無頼集団による突発的な行動であったかのように語られることにより、国家と人々(国民・市民)との暴力的な対立関係は隠蔽され、国家の暴力は、あたかも人々(われわれ)を守るためにだけ存在するものであるかのような見かけが作り出されるのである。
事実は、右翼を暴力へと駆り立て、右翼の暴力を黙認することで、その行使に事実上加担・操作している、国家の暴力こそ本質的なもの、われわれの敵である。
「右翼の暴力」を指弾するとき、それを可能にしている、この本質的な暴力を批判・告発していくことが、肝心なことなのだ。


無論、今日の日本においても、「右翼の暴力」は、そうした構造のなかでこそ成立し、働いているのである。
「短気で不寛容で凶暴な右寄りの親父」を押さえ込むことが肝要なのではなくて、その親父の力を絶大にさせているもの、威力の背景こそを批判しなくてはならない。
公権力が、人々の自由や権利を、右翼の暴力や妨害から本気で守ると人々が信じるなら、「右翼の暴力」は、さしたる力をもたないだろう。それは、ただの「切れやすい親父(若者)」というだけである。本来であれば、法によって取り締まれば済む話なのである。
だが、日本の公権力は、政治家や裁判官や警察は、右翼によるテロや脅迫行為を、たいていは黙認することにより、またときには扇動さえすることによって、それに力を与え、それを政治的に利用するのである。
この公権力のあり方こそが、最大の、もっとも本質的な暴力だ。
それはたとえば、イスラエル占領下の南レバノンでの民兵組織による虐殺を可能にしたシャロンの態度や、光州事件の勃発を黙認した駐留米軍司令官の姿勢と、構図としては同じものである。


公権力は、恫喝によって市民を黙らせ、同時に守護者としての自分たちの存在、暴力保持の正当性を示すために、「右翼の暴力」を利用する。
それはある場合には、いともかんたんに、この暴力の実行者を、たとえば「不当逮捕」という形で処罰の対象にし、周縁的な暴力(「切れやすい奴ら」)を排除するための、恣意的で越権的・脱法的でさえある権力の行使を、市民社会に当たり前のように受容させようとするだろう。
むしろ市民の多くは、(実際には公権力によって増長された)「右翼の暴力」からの安全を確保してくれるものとして、この不当な権力行使を歓迎し、やがて求めさえするだろう。
公権力が周縁的な存在に対してやすやすと振るうこの暴力こそが、実際には、われわれ(市民)の自由を奪っていくのである。


追記:考えたら、光州事件のケースは、軍(米軍司令官)が韓国の国軍の動きを容認したということなので、ここで類似の例にあげるのは適当じゃないですね。数年前にシリアのサッカー競技場で、シリアの警察が、住民によるクルド系住民への暴力を黙認した(逃げてきたクルド人だけを捕まえて追放した)ケースなどを例にあげるべきだったかと思います。