- 作者: 植村邦彦
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2010/12/16
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 80回
- この商品を含むブログ (33件) を見る
「市民社会」という日本語の概念をめぐる混乱の原因を、アリストテレス政治哲学の西洋思想史における受容の歴史にまでさかのぼって詳細に整理、分析。
また後半では、いわゆる講座派以後の、日本における「市民社会論」の特異な展開をたどる。
非常に重厚で刺激的な著作である。
(以下は、内容紹介というより読んだ感想を書いてます。内容については、現物に当たってください。お勧めです。)
ぼくはこの本を読んで、たとえば自由主義(ロック)と共和主義(ルソー)がどういう風に対立するものかが、はじめて腑に落ちた。
自由主義は私的所有の原理にもとづく自由経済社会の思想で、その弊害を批判して自由の制限(譲渡)を唱えたのがルソーの共和主義、と考えると分かりやすいよな。
このように見てくれば、「ロックが提唱」した「市民社会」が「自由・平等な個人の理性的結合」によって成るべき社会」(『広辞苑』第二版)などではないことは明らかだろう。ロックの「国家=市民社会」は、歴史的には、土地所有者たちが「自分の所有権と、共同体に属さない人に対するより大きな保障とを安全に享受すること」を目的として成立したものであり、同時に、まだ「囲い込みを知らない」同時代の「未開」社会に対して、ヨーロッパ諸国の法制度の優位性と経済的豊かさを誇示する概念として提示されているのである。(p55)
ルソーはこうした「市民社会=文明化された社会」を、『若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた』(『人間不平等起源論』 つまり資本主義、植民地主義ですな)として批判。「自然(文明以前)に戻れ」って、こういう意味でもあるのね。
この「市民社会(自由経済社会)」に対する批判は、ヘーゲル、マルクスへと受け継がれたとも言えるが、ヘーゲルが「法哲学講義」のなかで展開したというルソーへの賛同と批判の文章は、今読んでも鋭いものだと思う。
以下二つは孫引き。
「ルソーは市民社会の悲惨を見たために、人間に森の中へ行って他のものをすべて投げ捨てるように忠告しました。この堕落に対して深い痛みを感じて、彼は、特殊性が発展する元となる建物全体を取り壊すべきだという思想に至りました。」(p120)
「これらすべてはたしかに市民社会のもたらしたものだが、それに憤慨するあまり、ルソーその他、深い思考と感情の持ち主たちは、市民社会を拒否して、他の極端へと走ります。」(同上)
このルソー批判から、「市民社会」を(「欲望の体系」として)否定的に捉えた上でそれを人倫的な目的へと統合していくヘーゲル的な「国家」の思想が出てくる。
この流れを基本的には受け継ぎながら、社会の経済的な現実(資本主義)を分析し、「国家」ではなく経済的な仕組み(物質的な意味での関係性)の変革に矛盾(現実の「悲惨」)解決の道を見出そうとしたのがマルクス、ということらしい*1。
マルクスの思想についての紹介(特に、資本主義社会の矛盾を、植民地主義の内部化として捉える視点)も、たいへん勉強になった。
さて後半では、本題である、日本の文脈における「市民社会」概念の変遷の道筋が辿られる。
読んでいてたいへん意外であったことは、たとえば丸山真男(や大塚久雄)が「市民社会論者」ではなかった、ということ。
丸山には、ヨーロッパの「市民社会」がヘーゲル・マルクスの言う「欲望の体系」に他ならず、ナチス政権にしても市民社会によって(民主選挙により)産み出されたものだという冷徹な認識があった。西欧的な「市民社会」を「日本にはいまだないもの」として理想化した、講座派以来の「市民社会論」とは、はっきり一線を画しているのである。
すでに一九三〇年代に、丸山は当時の「市民社会」(=資本主義社会)が「ファシズム国家」を成立させたと見なしていたのであり、一九四〇年代にも「我が国の市民社会」がもつ「多くの特殊性」を問題にしていたのだからである。したがって、丸山の用語法に即していえば、「市民社会」はすでに存在しているのであり、戦後民主主義の課題が「市民社会をつくること」でなかったのは当然である。(p194)
日本における「市民社会論」の系譜は、戦後、アダム・スミスをマルクスに接続する思想の流れによって、その独特さを増していくということが、後半で強調されている点だ。
著者の整理は、ぼくには分かりにくいところもあるのだが、この系譜の傾向はひと言で言うと、「市民社会概念の脱政治化」ないしは「国家の不可視化」と呼べるのではないか。 市民社会が、対立や矛盾や敵対性をはらんだものであるという現実が否認され、「いまだここ(日本社会)にないもの」として理想化されることで、結局は観念(理想的なもの)の次元によって現実の矛盾を隠蔽するという国民国家の統合的機能(マルクス)に内属していくことになる、ということだと思う。
この後、70年代末の江田三郎などの「構造改革路線」(社公民路線)の敗北によって、日本の「市民社会論」が事実上終焉したこと、そしてその後の海外での「市民社会」をめぐる議論の展開と、90年代末に至って「新自由主義」の到来と共に、日本でも初めて海外の議論と「時代と文脈を共有する」(p305)形で「市民社会」をめぐる新たな議論が台頭してくる経緯が振り返られる。
とくに80年代から現在に至る日本の「市民社会」をめぐる状況について、著者が強調していることは、戦後の「市民社会論」においてスミスとマルクスとを結びつける理解が有力となったことが、スミス的な自由経済社会に対する肯定的な考え方を左翼・リベラル派のなかに育み、それが近年の(NPOの補完的な役割を称揚する)新自由主義的な「市民社会」言説(財界などによる)をもたらす根になった、という点である。
すでに70年代の終わりに財界や行政によって提言され、日本では2000年代の後半に至って「実現」することとなった「自由競争社会」としての、また同時に政府や自治体が手を引いた福祉の分野をNPOのような市民的な勢力が補完する形態をとることになった社会のあり方について、著者は書いている。
これが、かつての講座派や<市民社会論>者が望んだ社会ではないことは明らかだが、しかし、それとは無関係だと言うこともできないだろう。新自由主義はスミス的自由主義の思想的後継者なのであり、市場原理の貫徹する「商業社会」こそ、<市民社会論>が「一物一価の市民社会」という名前で呼んだ社会の本来の名前だからである。(p304)
以上の整理は、たいへん重要な指摘だと思うが、引っかかるところもある。
それは(先にも少し触れたが)、日本における「市民社会」をめぐる言説は、2000年代後半(つまり20世紀末)になって『ようやくアメリカやヨーロッパと時代と文脈を共有するものになった』(p305)とある点である。
江田三郎などの「構造改革路線」(70年代)について、「社公民路線」という風に書いてあるが、こうした議論は、彼らのみならず、この時期に日本のもっと広い領域において語られていたものではないだろうか?ぼくの記憶では、この前後に、共産党のなかにも「ユーロコミュニズム」の影響を受けて変化の起きる兆しがあったと思うし、何より本書にあるように70年代の半ばにはすでに中曽根のような保守政治家が「市民社会」という言葉を自分たちに有利なものとして使い始めている。
それらは、当時の「市民社会」や「構造改革」をめぐる日本での議論が、ある程度は70年代に欧米で起きていた出来事との同時代性のなかにあったことを示してはいないだろうか?
たしかに、この後の20年余り、日本は先進国の中で例外的な経済の安定期に入ったため、そこには「会社主義」が幅を利かせる政治的な空白期しかなかったかのように思える。
「市民社会論」が所詮は日本のローカルな言説であり、その必然的な終焉として江田たちの「構造改革路線」の敗北があり、世紀末の(グローバル化と)新自由主義の到来によって、ようやく国際的な意味での「市民社会」をめぐる議論に日本が追いついたのだという整理は、この見方を裏付けるものとなるだろう。
だが実際には、すでに70年代から日本の社会と思想は海外と同じ構造のなかに入っていて、空白に思える20年間にも、「市民社会」(資本主義社会)をめぐる葛藤が、静かに展開されていたと見るべきではないか。
経済の好況の故に日本と欧米との間に20年余りの(状況の)タイムラグがあったという言説は、この闘争的な現実(歴史)を覆い隠すイデオロギーみたいなものではないかという気がしている。
*1:この辺は、本当にはよく分からないのだが、分かったことにしておく。