『4ヶ月、3週と2日』

この映画は、ものすごく良かった。

http://www.432film.jp/index.html


チャウシェスク体制が末期に近づいていた1987年のルーマニアを舞台に、当時違法とされ厳格に取り締まられていた中絶手術を、友人にひそかに受けさせようとする女子大生が体験する苛酷な出来事を描く。


当時のルーマニアの状況については、上のオフィシャルサイトのなかの「作品情報」、そのなかの「映画「4ヶ月、3週と2日」の背景」という項目で、詳しく知ることができる(あらすじなども読めます)。
それによると(出産と中絶については)、労働力確保のため、中学生にまで出産が奨励され、女性は最低3人の子どもを産むように押し付けられ、中絶(避妊も)が厳しく禁じられ、違法手術が発覚すれば厳罰に処せられる、という社会だった。妊娠した女性は、必ず出産することを義務付けられていたのである。
このため、多くの孤児や捨て子が生まれ、「チャウシェスクの子どもたち」と呼ばれるようになったという。


そうしたひどい政策が行われ、また物資が不足し、秘密警察が支配するという当時の人々の日常と街の様子が、詳細に再現されている。
不安定なドキュメンタリー風のカメラワークも、たいへん効果的だ。
だが、なぜかぼくは、その街の映像を見ていて、ずっと昔から知っている街の光景のように感じた。現実に行ったことはないのだが、夢のなかで何度も行ってるみたいな、奇妙な感じがあった。
描かれている街は、意識の底でよく知っている場所なのだ。


物語については、とくに印象に残ったことをひとつだけ書いておきたい。
主人公の女子大生オティリアが、中絶しようとする友人ガビツァに、異常なまでに助力するという点である。映画を見た大半の人は、そこにいくらかの違和感を感じたのではないかと思う。
どこか他人事のようでさえあるガビツァの態度と対照するとき、オティリアが彼女の為に背負おうとし、また実際に背負うことになるリスクは、理解しがたいまでに大きなものである。
このことは、二人の態度が、まったく対照的に描かれているだけに、余計に際立つのだ。
「抑圧された女性同士」という立場の同一性を考えても、また上に説明されているような当時のルーマニア社会の異常な現実を考慮しても、オティリアの一方的な献身には、どこか合理的に説明できない余剰があるという気がする。


ぼくは、この二人の女性の関係を見ていて、まったくシチュエーションは違うが、以前に見たこの映画を思い出した。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20051012/p1


オティリアとガビツァの関係に、性愛のニュアンスがあるということなのかどうかは分からない。
言えることは、この関係には、市民的(理性的)な常識では理解しがたいような余剰があるということ、言い換えれば、「逸脱的」だということである。
社会主義独裁体制であろうと、資本主義体制であろうと、体制に従属する市民的な感覚によっては理解しがたいような「逸脱」を含んだ関係を、人は持つことがあり、じつはその「逸脱的な関係」の力こそが、人間同士のつながりを支えている。
むしろそれこそが、人々をあらゆる「体制」の支配から解き放つ力でありうる。
そういうことではないか?


その意味で、この映画に描かれた二人の女性の関係こそ、真に「反体制」的なものと呼べるのではないかと思った。