『アメリカ批判理論』

この本はとにかく面白かった。

 

 

ざくっと内容を言うと、トランプ政権下の米国において、新自由主義グローバル資本主義)と、権威主義の台頭(排外主義的情動の利用を含む)との結びつきをどう考えるかということがテーマで、この点に関してアドルノやマルクーゼ、ハーバーマスなどの批判理論(フランクフルト学派)を参照する論者たちの文章を集めたもの。

なかでも強力だと思ったのは、ウェンディ・ブラウンの論考、「新自由主義フランケンシュタイン」である。

まずその前半でブラウンは、特に米国の事例をとりあげながら、新自由主義(民営化)と「家族」的価値観との結びつきによる民主主義への攻撃のあり様を論述していく。

 

 

『(前略)私たちが考察してきた民営化の第2の秩序は、民主主義を、反民主主義的な資本価値よりもむしろ反民主主義的な道徳的価値ないし「家族」的価値観によって転覆させる。そこで行われるのは、民主主義的価値や制度に対する市場の戦争というよりも、家族的な戦争である。(p76)』

 

 

『公共的なものの経済的で家族的な民営化は、社会的なものに対する新自由主義的な誹謗中傷と結びつくことで、ともに「社会的正義」を専制君主的ないしファシスト的なものだとして攻撃する右派的立場を形成する。(p77)』

 

 

ここで、家父長的権力の反動的な再強化こそが、新自由主義のもたらす重大な政治的帰結であるということが示唆されているわけだ。

米国の文脈において、それは、これまで支配権を握ってきた白人男性たちの、不安に陥った情動の正当化という効果を生む。それがすなわち、トランプ現象である。

 

『「個人的な、保護された領域」が拡張されるとき、制限と規制とに反対することが基本的で普遍的な原理となるとき、そして社会的なものが落ちぶれ政治的なものが悪しきものとされるとき、白人男性支配の個人的憎しみと歴史的力とが解き放たれ正当化される。(p78)』

 

 

ブラウンの論点は、この本にも論考が収録されているナンシー・フレイザーのような、トランプを支持する貧困層の白人男性にも政治的共闘の可能性を模索しようとする左派の態度に対して、根本的な異議を呈するものだといえる。

トランプを支持するような白人男性たちを突き動かしている情動、それは、自分たちの支配が脅かされたことに対する反動(いわば支配への固着)であって、構造の不正義に対する怒りとは異質である。いや、異質などころか、それは不正義としての自分たちの支配(旧構造)を復権し、永続化しようという欲求を、その本質としているというべきだろう。

そう考えてみると、こうした反動的な情動と傾向は、「白人男性」に限らず、既存の安定した構造のなかで利益や権利を独占的に享受してきた、そして近年のグローバル化の動向によってその位置が脅かされたと感じている。多数者的集団に広く見られるものである可能性がある、と言える(ブラウンはそこまでは言っていないが)。

ここでブラウンは、この暗い(破壊的な)情念のあり方を、ニーチェニヒリズムの概念を援用して描き出そうとする。

 

 

『このようにして(ハンス・)スルガは、右派的自由が良心から解き放たれた諸相を、たんに新自由主義的利己主義や社会的なものへの批判によって描かれたからというだけではなく、ニヒリズム自身による良心の極端な抑圧のゆえに起こったものとして理解する。(p85)』

 

 

『倫理的な価値のニヒリスティックな分解は、社会的なものに対する新自由主義の攻撃と個人的なものの権利や力に結びつくことで、怒りに満ちた感情的で破壊的な自由を生み出す―ときおり保守的な右派性を身にまとっているときですら、それは倫理的貧困の兆候なのである。(p86)』

 

 

つまり、こうした情動は右派的・保守的な「正義」や「道徳」を標榜している場合でも、その実は、倫理性を極度に欠落させているところに特徴がある。

それは、新自由主義という不正義に対する抵抗や告発というよりも、倫理的な束縛に対する不満を、その本質としているのである。

ここで、これがこの論考のもっとも刺激的なところだと思うのだが、ブラウンは、マルクーゼの概念、「抑圧的脱昇華」を参照する。

人は、リビドーを文化や倫理の形成という形で「昇華」するが、資本主義・消費社会というものは、そうした「昇華」から、人びとをある仕方で「解放」することによってのみ成立する。それが、「抑圧的脱昇華」と呼ばれる。

 

 

『発展した資本主義社会における、自由で、愚かで、容易に操作され、些細な刺激と満足とに依存的とまではいえないものの没頭状態にあるような、抑圧的脱昇華の主体は、リビドー的に解放されより多くの快楽を享受するだけでなく、社会的良心と社会的理解力についてのより普遍的な期待からも解放される。この解放は、社会的なものに対する新自由主義的な攻撃と、ニヒリズムが促進する良心の抑圧とによって増幅されるのである。(p88)』

 

 

『彼(マルクーゼ)が言うには、その(抑圧的脱昇華の)現れ方は、異端者や反体制派とすら見えるのに十分なほど大胆ないし俗悪なものとなる可能性もある(中略)しかしながら、(中略)この大胆さと脱抑制は、一般的価値に対するのと同じように秩序の持つ暴力や偏見に対して立ち向かうというよりは、それらの徴候ないし繰り返しとなる。マルクーゼの見解では、抑圧的な脱昇華は特有の仕方で「自由と抑圧」そして逸脱と服従とを結びつけるのであり、今日頻繁に極右から噴き出している愛国主義ナショナリズムの野蛮で、獰猛で、ならず者的ですらある表現のなかに、それは明白に現れている。(p88~89)』

 

 

「怒れる白人貧困層」のようなものが、かりに実体としてあるとしても、その「怒り」の内実は「貧困」という階級的な要素にあるのではなく、「白人」、特には「男性」(家父長)としての特権が脅かされていることへの反動という体制(階級)従属的な要素にこそあるのだと、いうわけであろう。

そして、こうした個々の「怒り」、というよりも体制と同化するような憎悪や攻撃性は、新自由主義的な現在のシステムによって、とめどもなく増幅され強化されるであろうことを、ブラウンは警告している。

 

 

『抑圧的な脱昇華は、人間本能の他の源泉、すなわちタナトスの蛇口を開けることによって、暴力の新たなレベルとおそらく新たな形態すら解き放つ。マルクーゼが論じるように、エロスの脱昇華は「攻撃性の昇華された形態と同様に、昇華されない形態の増大とも」両立可能である。なぜだろうか。それは、抑圧的な脱昇華は、ただ自由のためにエロスを解放するだけではなく、セクシュアリティの範囲内におけるエロス的エネルギーの圧縮や集中を代わりに含むことがあるからである(中略)それゆえ、脱昇華されたエロスは、攻撃性を奮起させ、攻撃性と混ざりあい、攻撃性を強めさえする。(p89)』

 

 

ひとことで言えば、新自由主義的な社会は、「弱者」に向けられるような理不尽な暴力と相互依存的な関係にある、ともいえよう。この社会は、こうした暴力を蔓延させる本質を持っているし、むしろ、リビドーの方向性をそのように限定することによって、支配と管理を円滑に進めようとするものではないだろうか。

真に破壊されるべきなのは、この反永続的な支配の構造であり、その現在的な形態としての新自由主義なのである。