『人種契約』

チャールズ・W・ミルズ『人種契約』。

 

 

 

著者は、よく似た名前の社会学者とは別人で、ジャマイカにルーツを持つ政治哲学者。

ロックやカントに代表される西洋のリベラリズム思想が、人種差別と抜きがたく結びついてることを徹底的に批判した本で、同じくカリブ海出身のエリック・ウィリアムズの不朽の名著『資本主義と奴隷制』の政治哲学版、という印象もあり。

それにしても、この原著が1997年に出版されたことは重要だと思う。当時、米国はクリントン政権。5年前の「コロンブス500年祭問題」での批判もうまく体制に回収されてしまい、著者の言う「白人至上主義の第二段階」が、グローバル資本主義英米リベラリズムという形態で完成期に入って、「これは違う!」という危機感が強烈だったのではないかと思う。

 

 

『いまのこの時代において、白人たちの支配はもはや憲法や法律によってまもられているわけではなく、むしろかつて白人たちが征服したものの遺産にもとづく社会的、政治的、文化的、経済的特権の問題となっているのだ。

 第一の時代、つまり法律上の白人至上主義の時代において、人種契約はあからさまなもの(中略)であった。(中略)一方、第二の時代では、人種契約は形式的な存在の外部にみずからを書き記すようになった。(中略)この時代(つまり現在)を特徴づけているのは、白人が事実上いまでも保持している特権と、形式的な権利の拡大とのあいだの緊張関係である。(p90~91)』

 

『一般的な言説に見られる人種契約の諸項目を首尾よく書き換えたことによって、いまや白人による支配が概念的に見えなくなっている。(中略)アングロサクソンアメリカ人の哲学が、この時代、事実上の人種契約が存在するこの時代に復活してくるということが、このことが人種に対する現実離れした無神経さをある程度解き明かしてくれている。帝国主義植民地主義、集団殺戮(ジェノサイド)といったものの歴史、組織的に人種が排除されたという現実、こういったことが、もともと白人市民に限定されていた、抽象的で一般的な見かけをもったカテゴリーのなかでうやむやにされていく。(p145~146)』

 

 

著者の言う「人種契約」(それが、この社会のルールの真の姿だ)が、「人間」と「従属人間」との(国家的な暴力を基盤とする)構造化によって実行されるということ、それ(人種による支配・差別)は構築的であるが疑いようのない現実だという指摘は、繰り返し思い出すべきものだ。

 

 

レイシズムや人種にもとづいて構造化された差別が、決められた規範からの逸脱であったことはない。(中略)差別そのものが規範となっているのである。(中略)そうやって義務や権利、自由といったものが、人種的に差別化された土台にもとづいて割り当てられてきたのである。(p114~115)』

 

『人種は生物学的なものであるというよりも社会政治的なものであるのだが、そうであるにもかかわらず現実のものなのだ(p155~156)』

 

『白人至上主義は実際のところ色のことではなく、さまざまな権力関係のまとまりのことなのである。(p157)』

 

 

この最後の意味で、(過去も現在も)「非白人による白人至上主義(レイシズム)国家」の代表例ともいうべき日本についての分析は、最終部に少し出てくる。ただ、もう一つの顕著な例と思われるイスラエルについての記述がまったくないのは、いくらか物足りない。