『二つの同時代史』

二つの同時代史 (岩波現代文庫)

二つの同時代史 (岩波現代文庫)


だいぶ前に読み終わってたのだが、以下に書くことが気になって、なかなか感想を書けなかった。


これは有名な話らしいのだが、埴谷雄高は思想的な理由(10代のころからアナキズムに傾倒した理由でもある「能動的ニヒリズム」という言葉で説明している)から、結婚しても子どもを持とうとしなかった。妻は何度も妊娠するのだが、その度に無理強いしておろさせる。その結果、とうとう妻は子宮の病気になり、子宮を切除してしまったのだという。
 僕は、中学か高校の頃に埴谷の文章にはまったことがあり、代表作の『死霊』は分からないのでほとんど読んでないが(当時は、この対談に出てくる「夢魔の世界」の章はまだ書かれてなかったので、余計に分からなかったのだろう)、ユーモラスな文学史エッセイのようなものや、哲学的なエッセイを耽読した。
 50代になったいま、自分には子どもはいないし、正直、子どもを欲しいと思ったこともない。そういう自分の内面と、埴谷の「能動的ニヒリズム」とか、それを理由にした他者(女性)に対する暴力性とか、生命に対する否定的な感情とかいったものが、重なっていることに気づかされたように思い、それが気になったのだ。


埴谷自身は、この対談のなかで、自分がその出生の機会を奪ったことになる未生の子どもたち(胎児)に対する負い目のようなものを、死者一般に対する意識と結びつけて語っているが、僕にはそれ以上に、彼が堕胎を強いた妻との関係の方が重大に思える。
埴谷のケースは酷いことだとは思うが、考えてみると、それは男が妻(女性)の体を自分の所有物のようにしか考えていないという一般的な傾向を表す例と捉えるべきだろう。埴谷一人が特別なわけではないのだ。
こうした形でなくても、DVであったり、埴谷のケースとは逆に、子どもを産むことを強要する(あるいはそのための存在としか妻を見ない)といった暴力的な態度は、日本に限らず、また埴谷の世代に限らず(今はかつての世代ほど露骨ではないであろうが)、広く見られるものではないかと思う。
いや、このように結婚していたり、女性を妊娠させたりということがなくても、そうした(性差別的な)暴力性は男性のなかに根深くあるものだと、僕自身は実感する。
子どもを作るかどうかが問題ではない。結婚や出産や、中絶といったことが問題ではないのだ。生命を持った相手を、道具や所有物のようにしか見ないニヒリズム的な態度、それこそが殺戮の思想の根源だと思う。
それは、この対談のなかでは、埴谷が日本の帝国(植民地)主義とか、スターリン主義(ネチャーエフ主義)といった概念によって語り、非難しているものだが、私生活において、それを埴谷自身が体現してしまっていたのだと、彼は率直に述べているのである。
いまの日本の社会を見ると、この社会は、そうした越えがたい、内面化された世界の暴力性・差別性のようなものを、それでも越えようとする努力を一度もまともにしないままに現在に至っていると思われ、それを克服していく道は、埴谷がやったように、自分自身のなかにあるその世界の悪に向き合うところからしか開けないのではないかと思う。


本文中から、一か所だけ引用しよう。

大岡 きみのお父さんは、はっきりした世界観を持っていたね、二代続きだ。きみは一見おとなしいけども、非常に男性的だよ。
 埴谷 いや、男性的とは言えないねえ(笑)。ただフロイドは父親殺しを分析したけど、子ども殺しはないんだな。だから新しい心理学者は、心理的にも社会的にも、子どもをつくらない者における子ども殺しの表面的なかたちも暗く隠れた暗い深層の動機も、対象にしないといけないね。つまり、子どもができたときに無理やりにでも堕ろさせるというほとんど癒しがたいエディプス・コンプレックスをもったぼくみたいなタイプをね。
 大岡 いや、子ども殺しは昔からあるよ。
 埴谷 でも、昔のはほとんど貧困からなんだろ。
 大岡 父親、母親殺しほど、昔からそれは問題にならないんだ。たしか戦争中に読んだヘロドトスに出てくるどこかの国の王様と王妃は、戦争に負けて逃げる途中、谷があると、子ども、ったってもう成人だろうけど、手をつないだ橋をかけさせて、それを踏んづけて渡って逃げる。橋になった子どもはあとどうなったか書いてないが、谷へ落っこちて死んじゃうんじゃないかね。子どもっていうのは昔から、いらない時は間引きされたりするものだ。子どもは必要な戦力、労働力であるのをやめた時から邪魔になればどんどん棄てられたんだから、子殺しは問題にならない。(p153〜154)

 ここで大岡昇平は、他人(子ども)の生命を、労働力や再生産のための機械、もしくは兵力としか見なさないという態度は、この世界一般の一面の(システムとしての)実態であるということを語っており、またそれと結びついた暴力の行使者となる危険から、誰しも先験的に(不断の努力なしに)逃れることは出来ないことを指摘しているのだろう。
 さすがだと思う。