譚嗣同『仁学』

仁学―清末の社会変革論 (岩波文庫)

仁学―清末の社会変革論 (岩波文庫)


この本を書いた譚嗣同という人は、30代前半にして非業の死を遂げている。
浅田次郎の小説『蒼穹の昴』は、日中合作の連続テレビドラマにもなり、少し前にNHKで放映されていたので、それを見た人もあるだろう。その中に描かれていた、同志と共に皇帝(光緒帝)を幽閉して政治改革を行おうとして鎮圧され、処刑されてしまう若い学者、それが譚嗣同である。
彼が残した、ほとんど唯一の書が、この『仁学』なのだ。


このような行動をとった人の、これは社会変革のための書であるので、その内容と文章はたいへん力強い。
内容に関しては、まず冒頭から「似太」という語が用いられているが、これは当時のヨーロッパの科学の重要な概念だった「エーテル」を意味するもので、著者はこれを、遠く宋代の張横渠に淵源するという「気一元論」に結び付け、彼の革命思想の基礎にしようとしている。
その眼目は、社会全体、宇宙全体を、一個の大きな流動(「通」)として捉え、それを阻害するものを全て除去すること(「網羅の衝決」)が肝要であるとして、当時の中国の封建的な社会体制を打破し新しい社会を築いていく行為の正当性を立証しようとするのである。
その形而上的とも呼べる思想の性格は、流動を重視し、特殊(個別)を排して全体への帰一を目指すという点で、ベルグソニズムを思い出せるものでもある(当時の西洋の最新の思想傾向から影響を受けていたことは、よく知られている)。それは、最終的には国家を廃絶する、アナーキズム的・ユートピア的な構想へとつながっているといえる。これは、同じ変法運動のリーダー、康有為の大同思想と重なる点でもあろう。
また、やはり当時の中国の革命思想家の多くと同様に、墨子の思想(特に「兼愛」)の影響が見られ、そのことは明言されている。墨子は、すでに明代から再発見が始まり、その頃の出版物が江戸時代の日本にも入ってきていたのだが、儒教的な支配イデオロギーを否定する根拠として広く読まれるようになったのは、やはり清朝末のことであるらしい。


そうした性格と背景を持つ譚嗣同の主張の中から、特に印象の強かった箇所を紹介しておきたい。
まず、彼が旧来の社会の弊害を打破しようとするとき、その理由になっているものは何か。要するに、彼の革命への情熱の、核心になっているものは何であろうか。
次のような文章に、それは明快に示されているだろう。
清朝末期の破滅的な国情を叙述した後、彼は変法(体制改革)の必要を強調する。

これを救えるのは変法のみである。であるのに頑固にも変えようとしていない。そのわけはこうであろう。いま民を愚にしようというのに、変法したら民が智になる。いま民を貧にしようというのに、変法したら民が富になる。いま民を弱にしようというのに、変法したら民が強になる。いま民を死に向わせているのに、変法したら民は生に向う。いま智と富と強と生とを己ひとりに独り占めし、愚と貧と弱と死とを民におしつけようとしているのに、変法したら己と争って智を奪い富を奪い強を奪い生を奪うだろう。こう考えて、それで頑固に変えないのだ。だが考えてみれば、智や富や強や生は独夫の手ではおさえきれない。そのことはご存知なのだ。そこでまた、牧場の水や草と見なしている中華の民と一緒に粉砕されて他人さま〔外国〕のお役に立ててもよい、自分が食いものにしていた連中が自分に反抗することだけは絶対させまい、とするのである。(p155〜156)


このように、彼が問題にするのは、外国か自国かという区別ではなくて、(悪しき)支配者と民衆との対立である。清朝の場合、異民族王朝という特殊な面があったのだが、そのこと(民族間の問題)よりも、支配者と民衆との敵対的な関係の方が重視され、「外国」の存在も、その枠内でのみ問題にされたりされなかったりする(彼は、日本を含めた諸列強については、それが自国の王朝の封建的体制の否定を意味する限りにおいて、むしろ肯定的に論じている)。
支配者は、民衆を攻撃し、根本的には平等を阻害するものであるが故に、打ち倒されねばならない、と考えられているのだ。
これは、裏返しにされたマキャベリ的支配者(君主)観と呼べるものだろう。


要するに譚嗣同は、民族主義者やナショナリストである以上に(あるいは以前に)、平等を求めた人だった。
その立場から、民衆に敵対する自国の支配体制に闘いを挑み(その仕方がどうだったかはともかく)、死んだのだといえる。
民衆を殺し、平等を阻害する者は、それが誰であっても、彼には許しえない敵だったのである。
旧来の体制は、何よりもまず、それが平等を損なうからこそ、打ち破られねばならない。これが、譚嗣同の革命思想の核心であったと思う。


では譚嗣同における、その「平等」とはいかなるものか。
それは、男女の平等についての主張、とりわけ「性の解放」をめぐる言説によく示されていると思う。
彼は、当時の封建的な社会体制において、性が不自然に隠されたり規制され、そのことによって、かえって「淫」という虚構的な作用が生じ、人を支配し荒廃させるようになるというメカニズムのあることを見抜いていた。

世間が淫に加える規制は、これはまた度が過ぎていて、かえって人を淫にさそう。(p48)

人のことをただ淫の具と見なす、その本人も自分のことをただの淫の具としているわけだ。(p49)


規制され隠されることによって、「淫」という虚構の性格を与えられた性が、人と人との平等な関係を阻害していく。
だが、とりわけ現実の社会において、この抑圧的なシステムが、女性という周縁的な存在に重く圧しかかっていることを、譚嗣同は問題としたのである。

がんらい男尊女卑は、礼にはずれた無茶な法である。男の方は、めかけ側女をまわりに侍らせて思うさまの淫行をはたらきながら、女の方が少しでも淫すると忽ち死罪とする。(後略)(p49)

男女はひとしく天地に咲きでた花であり、ひとしく無量無辺の徳をそなえて平等対等であり、けっして淫のためにこの世に生れでたというものではない。(p50)


彼が弾劾しているものが、性の規制による平等な関係の破壊であり、周縁的な存在とされた女性たちに苦悩が押しつけられるような社会の不正義な実態に他ならないことが分かるだろう。
性欲は本来、「淫」などと呼ばれるべき特別なものではないと、譚嗣同は言うのだが、それは、それが人為的に特別なものとされることによって、女性たちに大きな抑圧が圧しかかり、苦しめられるからであって、ただこの故にこそ「規制」(「淫」を作り出す装置)は悪なのである。

それにまた、淫とはなんということはない、機械の機軸の衝動なのであり、衝動も自分の勝手になることではなく、大自然の造化のふいごに動かされるのだ。(p50)


こう書く時、譚嗣同の胸の中にあるのは、「淫」が作り出され、押しつけられることによって苦しめられている、周縁的な人たちの存在なのである。
こうした性に関する抑圧の犠牲となって、零落したり死を選んだりさせられる女性たちについて、譚嗣同は次のように述べている。

男女が精をあわせるのは、双方のしくみがうごくというだけのこと、世間と切れてしまうほどに恥ずべきことではまったくない、とわかっていればよいことであるのに。(p52)

淫を断滅する機縁に出あったらすぐさま断滅することだし、機縁がなければ、つまりは天地造化のしくみのままにしたがって、余計な加減はしないことである。(p53)


つまり、譚嗣同の考える解放とは、「淫」という虚構によって苦しめられている人たちの気持ちを少しでも楽にし、救済することであって、強者のための解放(規制の撤廃)などとは、真逆だと言ってもよい。
ここでは解放というものは、とりわけ社会システムの犠牲になっているような周縁的な立場の人々を救うためのものなのである。
その人たちが救われることが、平等な関係と社会が実現されるということであり、結局は私にとっても、救済であり解放となるだろう。この本のなかで譚嗣同は、自分と我との区別は錯覚であって、他人を救うことがそのまま自分を救うことでもある、という意味のことを何度も述べているが、それはこういう社会的な意味に解されるべきだ。
また、一般に解放と考えられているものが、本当にその人たちの救済につながっているかどうかにも、常に注意が必要だろう。
ともかく、周縁的な位置に押しこめられて苦しんでいる他人を救うことが、すなわち私を救うことであり、そして平等な関係を実現するということだと、譚嗣同は教えているのだと思う。
僕が譚嗣同の「平等」の思想に惹かれるのは、特にこのような部分である。


このように、譚嗣同の革命思想の核心は、周縁的な位置に追いやられた人々に圧しかかる不正義を除去し、個人と個人との間に平等・対等な関係が成り立つような社会を実現しようという意志だった。
このような意志は「仁」と呼ばれ、また関係のあり方そのものは、「朋友」という、やはり伝統的な言葉によって示されている。譚嗣同は、儒家のいう「五倫」のうち、家族や忠義に関わる規範をことごとく否定したが、唯一「朋友」だけを肯定した。君臣も父子も夫婦も、すべて本来は、朋友であるべきだというのである。
このような譚嗣同の考え方が生れた背景には、少年時代に偶然知り合って知遇を得、多くを学ぶことになった回族出身の人物「大刀王五」(王正誼)の存在があったのではないかと思われる。この人は武芸の名手だったが、腐敗した富める人間から財を奪って貧しい人々に分け与えることを生業とする、いわゆる「義侠」としても広く知られ、中国全土に広がるネットワークを持つ人だったという。(清水稔 「譚嗣同小論」)
社会の周縁に生き、公権力を敵に回しても貧しい人たちを救うために戦う人々の姿から、権力や富に支配されない真に対等な人間同士の交わりの大切さを、譚嗣同は肌で学んだのではないだろうか。
著名なマルクス主義歴史学者ホブズボームは、その『匪賊の社会史』のなかで、かつて東欧の山中などで活動したハイドゥクと呼ばれる匪賊的集団に関して、非常に面白いことを書いている。
特にバルカン半島におけるケースだが、ハイドゥクは、『妻や子供や土地を持たぬ』男たちだけによる変則的な社会集団であることが多かった。彼らは、家族をつくることも、ハーレムをもつこともなく、また建前としては女性とのセックスを避けることすらあったのだが、重要なのは、それが禁欲ということを意味するのではなく、女性に対して所有的な関係を持つことなく、あくまで対等に接したということである。
『すべての匪賊同様、ハイドゥクもまた女性に対して何ら敵対的ではなかった。』と、ホブズボームは書いている。それどころか、女性がハイドゥクに加わることもしばしばであり、女首領となった者さえ一人ではなかった。そのなかのある者は、結婚することになると、別れの儀式を済ませた後、山から村に戻って行った。

これら山へ逃れた女たちは、ハイドゥクとして生活している時期には男であり、男の衣服をまとい、男と同じく闘ったようである。俗謡に出てくるある女は、その母親の懇望で家庭に帰り女の役目に戻ったが、どうにも我慢ができず糸巻車を置いて再びライフル銃をとり、ハイドゥクの男となった。自由人が男にとって高い身分を意味するのとちょうど同じく、自由人は女にとって男の身分を意味した。(『匪賊の社会史』ちくま学芸文庫 船山榮一訳 p117〜118)


ここでは、男と女は、対等な関係、譚嗣同のいう「朋友」として出会っているのではないかと思う。
だとすれば、彼が構想した革命的な社会のあり方の一つのモデルを、この歴史の記録のなかに見出せることになるであろう。


匪賊の社会史 (ちくま学芸文庫)

匪賊の社会史 (ちくま学芸文庫)