恵まれている人たちの闘争

悪いけど、こういうニュースはまったくどうでもいい。


春闘賃上げ、ほぼ「昨年並み」…大手が一斉回答
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080312-00000020-yom-bus_all


どうでもいいというのは、自分の身に直接関係ないからではない。
自分とは関係ないところで、他人の身に起きていることであっても、無関心で居られない、無関心でいてはならないことというのはある。
しかし、こういう「賃上げ」の可否などは、どうでもいいことだと感じる。


もちろん個別に見れば、生活のかかった切実な闘いや交渉もあるだろう。
だが、大半のケースにおいて、これらの「闘争?」の可否は、労働者の生活にどの程度切実な影響を及ぼすのか。
つまり、「闘ってる」当人にとって、あまり重大な問題ではない場合がほとんどではないか、と思うのだ。


他人のことを、そのように断定してしまうのは、なんだかひどい気もする。
だが、どう考えても、この人たちより困窮している労働者や家族が、日本の企業社会の内部・周縁部には大勢いるはずだ。つまり、非正規雇用とか、失業して、なかには野宿していたりする、そういう人たちだ。
その人たちの状況と比較したときに、これら相対的に恵まれた位置にある労働者の「闘争」というものは、どうでもいい、微温的なものとしか映らない。
そういう気持ちで、これらのニュースを見ている、特に非正規雇用の人や、貧困にあえぐ人は多いはずである。
そして、そのことが実は一番よくないことだ。


多分必要なのは、これら相対的に恵まれた(ぼく自身も、ある意味では恵まれている)境遇の人々が、切実さを、その「闘い」や「抵抗」のなかに取り戻すことだ。
それは、自分の境遇をあえて悪い条件に落とすということではない。
そういう仕方もあるかもしれないが、ここで言いたいのは、そういうことではない。
必要なのは、自分よりも恵まれていない人たちの生活を守る闘争を、自分たちの(傍らにではなく)中心にすえるということ、そのことに関して妥協しない、という態度だ。
そういうものを打ち出したときに、これら相対的に恵まれた人たちの闘いは、「力」と「輝き」を取り戻すはずである。



それこそが、恵まれた人たちと、恵まれていない人たちの、双方を解き放つ道を開くだろう。