正しくない人間たちのための正しい展望

「労働の拒否」ということをいう人が居る。
ともかく賃労働のいまのあり方を肯定するのはよくない、という意見がある。



それに対して、それでも誰かが生きるために必要な労働、最低限の生産とかケア労働とかそういうものは現実にあり、誰かはそこで労働せねばならないのだ、といわれる。
また現状は、そういう部分にかえって労働力が足りてない、という問題が起きている。それは、そうした労働が重要なものであるにも関わらず、過酷な割には賃金が安いとか雇用条件が悪いとか、そういった実態があるからだとされる。
賃金や条件のその劣悪さは、そこで働く者自身の生存が危うくなるほどだという。


すると、その解決策として、現に回っている産業社会なり消費社会の仕組みが、(欲望のあり方を決定することをも通して)そういう労働を「割の悪い」ものだと人に思わせ、その仕事に就きたくないと思わせているのだという反論があり、その仕組みが解体されればこの需給の問題は解決されるのだ、だからまず「労働の拒否」(によって現在の資本主義経済体制への拒否)を行うことが先決である、という主張が考えられる。


この反論(つまり「労働の拒否」論)には魅力がある。
それは、われわれが現在の経済と社会の仕組みのなかで失った、人として生きる上での何か基本的な要素、ネグリなら「共」と訳される語で表現しているようなものを、われわれに思い出させ、蘇らせようとしているように思えるからだ。
この要素は、たしかに現在の社会の中では、その存在も可能性も不当におとしめられ禁忌であるかのような烙印を押され、それを追求することはさまざまな歴史上の悲惨(旧ソ連や、文革や、北朝鮮や、ポルポトや、たとえばそういったもの)の再現をしか意味しないかのように見なされている。
それらの歴史上の(いや、ときには現在の)事例とされるものは、まるで消費社会のなかでの「ホームレス」の人たちがそうであるような、(資本主義社会からの離脱の行く末の)一種の見せしめのような役割を担わされているのである。
だがそこには、私たちが生きていく上での、もっとも大事なものが秘められていることに、今や多くの人が、否応なく気づきつつある。


そこで、こうした歴史上ないしは現在の事例、いわばある人間的な社会の理想の実現を目指した挙句に出現したとされる多くの悲惨な実例について、そうした結果がもたらされた理由の大半は、周囲を囲んだ非人間的な社会(つまり、資本主義や帝国主義のことだ)の圧力の結果なのだ、という論理が出てくる。
この論理は、たしかに間違っていないのかもしれない。
少なくともそれは、この人間的な理想の追求という行為に被らされた不当な烙印(それこそ、まぎれもない「圧力」だ)を少しづつ消し去っていく力を持つものかも知れないし、そうあるべきだろう。


ともかくここで必要なこと、そして今極めて大切なことのひとつは、こうした理想の追求にのしかかる不当な圧力と烙印とを、除き去る努力をすることである。





だが、このような圧力が仮にすべて除去されたとき、あるいは少なくとも、その方向へと人々が大きく歩み始めたとき、上記のような労働力の配分の問題、つまり過酷ではあるが誰かが生きるために必要不可欠な労働に従事する人が足りないという問題が、すっかり解決すると考えるような人間観、社会観は、どこか歪んではいないだろうか?
人間の欲望は、たしかに一様ではなく、また社会の現実の権力に著しく規定されているものだろうから、いま現に働いている欲望のあり方だけを自明で変えられない所与とみなすべきではなく、「もうひとつの世界」は常に可能なのかも知れない。その世界では、人々は誰彼の生存にとっての必要度に応じた労働力の配分に、すすんで従うといったことがあるのかもしれず、少なくともそうなることを否定する根拠は何もないともいえそうだ。
だが、欲望が外部からの力に左右されやすく、そのあり方が一様でないということは、逆にどんな理想的な社会になっても、いま現在のような欲望のあり方を選ぶ、あるいはそこに陥る不心得者が居ても不思議ない、ということでもある。
そのとき、そのような者の態度を「逸脱」と見なすようであれば、それはやはり人間に対して硬直した見方に陥っていると言わざるをえないだろう。


いずれにせよ実際には、理想的な社会への移行は一気になされるものではないだろうし、また当然、理想的な社会から理想的でない社会への揺り戻しや退行といったことも、起きない方が不自然だろう。
そしてどんなに理想的な社会が到来しても、人間の心や存在は常に理想的であるとは限らないし、また限られてはならない。
要するに言いたいことは、社会がどれほど人間的(脱資本主義的、というような意味で)に変わったとしても、人間の欲望のあり方は、そう一息には変わらないだろうということである。


そうだとすると、それでも生存をめぐる労働力の不足という問題は、人々が人間的な社会を真剣に希求すればするほど、いっそう切実な課題だろうから、それを解決する方法としては、不心得な欲望をまだいくらかは抱いているだろう多くの人間を、強制的にその不足しているところに充填して従事させる、ということ以外になくなるだろう、ということである。
その場合、それが正当化される根拠は、「人間は本来そのような(不心得でない)欲望を持つべきだから」ということになろう。
もちろん、そうした社会だけが不自由で、今われわれが生きている社会がそれに比べて不自由ではないと主張するつもりはいささかもないのだが、それにしても私は、そのような社会に生きたいかと聞かれたら、やはり二の足を踏む不心得者である。
だいたいそういう社会が、気のつかないうちにやはり非人間的な社会体制に変わっていたなんてことが、起こらない保証があるだろうか?


むしろ人間の欲望のあり方から、いったんあらゆる「べき論」を分離し(本当は「べき」ものが在るのだが)、そうあるべき理想を実現するための手段として、現にある(そして当面は大きく変わりそうにもない)人々の欲望のあり方に訴える、それを利用するという道を選んだ方が、無理が少ないのではないだろうか、ということである。
具体的にいえば、いま介護職になかなか人が集まらないのは、賃金の低さや労働条件の悪さに原因があるのだろう。それを解決するためには、賃金を高くすればよい。そのために、再分配によって介護を必要としている所得の低い人たちに、より多くの財が利用可能であるようにする。そうすれば、そのことによって介護職の人たちの賃金が上がり、「高い賃金が欲しい」という欲望に押されて、人々は介護職という「生存のために必要な労働」に従事するようになる。
やはり、こういうやり方のほうが良いと思うのである。


「生存に必要な仕事だから、そこに労働力を優先的に差し向ける」ということは、無論理念としては正しい。
そして今の現実は、そのような仕事であるにも関わらず、それに従事する人たちの生存さえ危ういという、ひどい雇用と労働の実情だろう。
だがその正しい理念を実現し、正しくない現実(それは端的に正しくないのだ)を変えていくためには、必ずしも正しくはない人間の欲望に働きかけるという方法を用いた方がよい。
人間はいつも、必ずしも正しくはないということを認めながら、そこから現実を変革する努力を続けていこうとする方がよい。
私は、そう思うのである。





しかし現状は、そうした「正しくない」人間の欲望や心理を巧みに利用しているのは、資本や国家の側である。
たとえば、「高い賃金が欲しい」という欲望のメカニズムを、国家間の貨幣価値の差異に当てはめることによって、日本の行政や企業は海外から介護労働力の輸入を行い、そのことによって「他人の生存に必要な仕事に従事する人たちが、生存に十分な賃金を得られていない」という不当な構造、社会的な暴力を温存し続けようとしているのである。
私たちが真に断罪し、放棄を迫るべきなのは、そういう大きな力の背後にある欲望であるはずだ。