私は何を守りたいのか

スピノザと表現の問題』の、先日引用した以下の箇所をめぐって少し考えてみる。

スピノザの場合二つの根本的インスピレーションが調和しているのが見られる。自然学的なインスピレーションによれば、変様をうける能力は、それが能動的変様によって行使されていようと、受動的変様によって行使されていようと、同一の本質に対して一定している。従って、変様はありうるままに常に完全である。しかし倫理的なインスピレーションによれば変様をうける能力は極限においてのみ一定している。それは受動的変様によって行使される限り、最小のものとなる。そのときわれわれは不完全そして無力にとどまり、われわれはいわばわれわれの本質あるいはわれわれの力の度合いから分離され、われわれのなしうることから分離されている。なるほど存在する様態はありうるままに常に完全である。だが、それは現実にその本質に属する諸様態に関連してのみそうなのである。たしかにわれわれの経験するもろもろの受動的変様はわれわれの変様をうける能力を行使する。だが、それらの受動的変様はその変様をうける能力をまず最小のものとなし、直ちにわれわれをわれわれのなしうること(活動力)から分離したのである。従って、有限様態の表現的変化は経験された諸変様の機械的変化においてあるばかりでなく、また変様をうける能力の力動的な変化と本質そのものの「形而上学的」変化において成り立っている。すなわち、様態が存在するかぎり、その本質そのものはしかじかの瞬間にそれに属する諸変様に従って変化しうるからである。(p230〜231)


ここでのぼくの読み方はこうである。
「自然学的なインスピレーション」の観点をとるなら、各人の生はそれが在るというだけで肯定されていることになる。一方、「倫理的なインスピレーション」の観点に立つなら、その生がどれだけ本質を表現しているか、あるいは能動的たりえているかといったことによって、それぞれの間に差が生じているということになる。
スピノザは、この異なる二つの観点を矛盾なく思想のなかで統合していたのだ、とドゥルーズは言ってるのだろう。
それは、われわれが「受動的変様」と呼ばれるような生の状態から(倫理的な努力によって)抜け出すことによって、われわれはその本来与えられている生の力(能力)をはじめて十分に獲得できる、ということであろう。


そうだとすると、これはしかし二つの観点(インスピレーション)の「調和」ということになってるのか?
「自然学的なインスピレーション」(A)による生存の肯定のためには、「倫理的なインスピレーション」(B)の観点における「表現」の十分な実行(行使)と呼べるようなもの、要するにここで言う「倫理的」な生の強度のようなものが必要だということになるだろう。つまり、Aの肯定は無条件というわけではなく、その実現されている「表現」の度合い(強度)に応じて、生の位階のようなものが生じるということにならないだろうか?
この意味で、AとBとの「調和」といっても、ここで示されている(ドゥルーズによる)スピノザの考えは、Bの方に偏ったものという印象を受ける。そしてこの印象は、ドゥルーズの本を読んでいて常に感じるものでもある。
つまり、Bが実現されていない(生の)様態におけるAの(生存の)価値というのは、どう確保されるのだろうか、という疑問だ。


こういう点で、「スピノザドゥルーズ」的な思想というのには、ぼくは疑問があるのである。
だが、ここのところはたいへん難しい。
というのは、生の無条件的な価値を肯定しようと思って、「BではなくA」というふうに、あるいは「BよりもAが根底的」というふうに言ってしまった場合、それは本当にAを肯定したことになるか、というと怪しいからである。
それはどちらかというと、AからBを切り離してしまう効果、人がBに則った生き方をする契機を奪ってしまう効果を生じさせるのではないか。
実際、スピノザドゥルーズが言ってることの真意は、その辺にあるのだろう。
つまり、ドゥルーズによるとスピノザの思想の強い意味は、人を受動的な生の状態に縛り付けておくものと戦い、その悪しき支配から人々を解放しようとするところにあったからである。
「人は倫理的に生きてよい」あるいはむしろ、「人が倫理的に生きる自由こそ守りぬかれるべきである」、そういった政治的メッセージが、彼らの思想には込められているといえる。


少し戻って言うと、「BよりもAが根底的」というふうに私が言おうとするとき、それがほんとうに私が行おうとする肯定に届くことは、簡単ではないと思うのである。
それはむしろ、私が目指しているものとは別のものの擁護を意味してしまうだろう。それは私や他人を、受動的な生の状態(スピノザ)のなかに置き続けることに加担しかねないものである。


だがそれにしても、ここでのドゥルーズ的な言い方が、Bの優位ということ、そのことによる生(生存)そのものの根本的な肯定の軽視を引き起こしかねないということは、やはり言えるように思う。
しかし、ではそこでわれわれが代わって肯定しようとするものを、どう言い表せばいいだろうか。
それは、「倫理(表現)的ならざる生も、また生である」というふうなことだろうか。だが、ここでわれわれが肯定したいものは、もちろん「非倫理的な生(存)」ではなくて、「生(存)そのもの」であるはずだろう。
つまりそれは、(最初から分かっているべきことだが)私一個の生の領域を、他人の存在に向かってはみ出すような問題であることを示しているのだろう。
われわれが擁護したいもの、守りたいものの核心は、その方角にこそあるはずである。