プラトン『国家』メモ・その1

プラトンの『国家』を読み出したが、滅法面白い。
もっと早く読めば良かった。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)


冒頭に近い部分では、ソクラテスがケパロスという金持ちの老人に、「老い」ということについて尋ねる。
ケパロスの答えは、愛欲や快楽を求めるさまざまな情念(欲望)から解放されたことによって、かえって自分は自由になった、というものである。

そして彼らは、何か重大なものが奪い去られてしまったかのように、かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように、なげき悲しむ。(p21)

まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね、さまざまの欲望が緊張をやめて、ひとたびその力をゆるめたときに起こるのは、まさしくソポクレスの言ったとおり、非常に数多くの気違いじみた暴君たちの手から、すっかり解放されるということにほかならない。(p21〜22)


欲望についてのこうしたとらえ方は、先日も、『潜水服は蝶の夢を見る』という映画の感想を書いたときに、少し考えたようなことである。
欲望や情念を「暴君」のようにとらえて、その支配から解放されることで真の自由を得るという考え方は、大昔からあるものなのだろう。スピノザの情念についての考えも、その系譜のなかにあるものかもしれない。
ここで特徴的なのは、スピノザが受動感情と呼ぶようなもの、つまり荒々しい情念の力が、もっぱら乗り越えられるべきもの、除去されるべきもの、つまりは障害物のようにとらえられてることだろう。
たとえば孔子は、もう少し違った考え方をしてたのではないか、つまりそうした情念について肯定的な意味づけもしてたのではないかと思う。また、スピノザの情念論にも、そういう両義性があると思う。
結局、それらは同じようなことを言ってるのではあるが、われわれが日常そのなかに浸っているような情念(欲望)を、部分的ではあれ、肯定的なものととらえるか、とらえないかの違いは大きい気がする。
たとえば晩年のフーコーの思想も、そのへんを考察したものだろう。




次にソクラテスは、ケパロスに「金持ちになって良かったと思うことはなんですか?」と質問する。
この答えが、すごく面白い。
ケパロスの答えは、結局、金を持っているおかげで、生きている間に他人や神に対して、心理的な負債を作らなくて済むことだ、というものである。
金を持っていることの効用は、何かが得られたりすることではなく、負債を負わずに死んでいくことが出来ることにこそあるのだ、というわけである。
この後、議論は「正義」とは何かというテーマに移るのだが、その議論が、「負債(つまり、交換の論理)」と、それを乗り越えるもの、つまり「贈与」ということをめぐって展開していくであろうことが、ここで予告されているとも読めるわけである。


そして実際、第一章はそういうふうに進むみたいだ。