鳩山の顔

普天間の問題をめぐって、鳩山首相が沖縄に行って知事や市長に会ったり、住民との対話集会に出たり、また徳之島の市長たちと会談したりというニュースが連日報道され、首相の「迷走」ぶりに対する非難と共に、その姿や表情をブラウン管なり紙面の写真なりで幾度となく目にする。



その表情を見ていて、思うことがある。
それは、自国の首相の、こんな弱々しい顔や様子を、たしかにあまり見たことがない気がする、ということである。
鳩山は、周囲がとめるにもかかわらず、「最悪のタイミング」と言われるようなときに、わざわざそういう場所に出向いたり、人に会ったりして、そうした姿と顔をカメラの前にさらし続けているのだ。
たしかにこれは、理解しがたいところがある。


首相の職務は、想像を越えるプレッシャーのある重責だ、ということが言われる。
たしかに、私が物心ついてからでも、大平正芳小渕恵三のように任期半ばで生命を失った首相があった。また、田中角栄のように、職を退いてから、大きく心身にダメージを被ったことが明らかになった人もある(彼の場合は、他の要因も大きいだろうが、それも首相になったが故のことだろう)。そして、そうした政治家の多くが、アメリカから比較的距離を置こうとする立場の指導者であったということも、やはり偶然でないような気がする(つまり、この国ではどういう場合に「プレッシャー」が指導者に、より激しくのしかかる構造になってるか、ということだが。)。
また、最近では、上記の人たちとは政治的立場が違うが、職の末期にほとんど限界を越えてしまった様な感じになった総理大臣も居た(小泉の次の人。)。


だが、鳩山の場合にはどうも、それらのどのケースとも、やや違っている印象を受ける。
それは、おそらく鳩山が、良くも悪くも「理念」を重視するタイプの政治家だからではないか、と思う。
それを指して、「夢を見ている」とか「甘い」とか「奇麗事」とか「嘘八百」とか言われることもあるだろうが、ただ私は、そこには一応、当人にとっての「嘘」というものは無かったのではないか、と思う。
今回の基地の問題についても、「自然への冒涜」というふうなことを言い、「最低でも県外移設」という風に言っていたのは、当人の理念に照らした結果の、本心であったのではないか。
もちろん、それが必ずしも良いことだとは言わない。政治家が「理念」しか語らないことは、「甘い」ばかりでなく、むしろ危ういことでもあるだろう。
ただ、鳩山という政治家の本質は、「理念」を(軽々と)口にして、それを(簡単に)実行に移そうとする、そこにあるのだと思うのである。


これは、かつての細川首相と似た、政治家としての資質かも知れない。
だが鳩山は今回、おそらく意に反してだが、その「理念」の遂行にあたって、細川が踏み込むことの無かった、最も抵抗(圧力)の激しい領域に踏み込まざるをえないことになった。
つまり、沖縄の米軍基地をめぐる問題、アメリカの日本とアジアに対する支配(及び、それに支えられた日本国内の支配の構造)に関わる問題である。


私は、米軍が沖縄から基地を「県外」に移設しようとしないのは、それをやると、日米安保の暴力性と、日米関係の非対称性と欺瞞性が、日本人マジョリティに肌身で分かってしまうからではないかと思うのだが、それはともかく、この問題に踏み込んで自分の「理念」(友愛、平和、環境保護といった)を通そうとするなら、鳩山は、アメリカと日本との共犯的な権力の構造に、否定的に直面せざるをえないことになるはずである。
そのことは、戦後の大権力者の孫でもあるこの政治家の、いわば自己形成してきた精神的な土台そのものを自ら破壊するほどの行為となりうるだろう*1
その土台を自ら否定してまで、己の政治理念を貫くか、それとも何にも触れなかったことにしてこれまでの権力構造を追認しアメリカの(というより既存の日本の権力構造の)言いなりになるか。
今鳩山は、こうしたいわば実存的な岐路にも直面しているのではないだろうか。


これは、その時の首相が「親米」か「独立志向」かというような、保守政界(現民主党を含む)の表面的な差異のレベルに関わる「岐路」(ジレンマ)ではなく、その保守政治を支えている根底の構造に関わる「岐路」でもある。
だとすると、本人にとってはこれは、「総理の職を辞するか否か」というようなこととは意味の違った、恐ろしい重圧だろう。


その恐ろしさに直面して、ほとんど「言いなり」になる道を選び、それでもそう決めきれずに懊悩しているというのが、現状ではあるまいか。
沖縄に行ったり、徳之島に泣きついたり、じたばたしていると見えるのは、いわばその我が「土台」を崩すという決断をすることなく(同時にアメリカにも逆らうことなく)自らの「理念」を少しでも実現したいという、なかば不可能と知りながらの虚しいあがきのようなものではないか。


その姿には、すでに選択が(蓋をするということに)半分以上決まっているがゆえに、どこか自己処罰的な印象、つまり自分を厳しい状況にあえてさらすことで、自分が行う「理念への裏切り」を相殺したい、というような願望の印象も受ける。
だが同時に、彼は無意識に、そうした「現場」に赴くことで、自分の「土台」(それは、この国の戦前から続く権力構造そのものでもあるのだが)を破壊して己の「理念」を貫く、そのための「力」をどこかから(人々から?)得ようとしているようにも、私には想像できるのだ。




もちろん、私が言いたいのは、だからその結果どんな選択をしたとしても、それを多目に見てやれ、というようなことではない。
一国の最高権力者である総理の決定は、とりわけこの場合には、実存的問題などに関わり無く、巨大な破壊を、人々の生活や自然環境に及ぼすものであることを、私も知っている。
われわれが鳩山に強く求めるべき「決断」は、ただひとつしかない。
それは、この戦後(にとどまらないが)日本政治の権力の「土台」を自ら破壊することを通して、より巨大な権力による破壊を阻止する決断をせよ、ということである。
その意味で、いわば鳩山には、自らの土台である枠組みを壊して己の理念を貫く「暴走」の勇気を、期待する以外にはないのである。


だが、私がここで本当に言いたいのは、別のことだ。
それは、甘い「理念」を貫こうとした結果、自らの「土台」との否定的な対決をやむなくさせるような過酷な「現実」に直面し、懊悩し弱々しく震えている、あの姿と表情は、他ならぬ、政権交代を(深い思慮はなかったとしても)望んで選択した、有権者であるわれわれ自身のものでもあるはずだ、ということである。
「土台」は、ひとり鳩山にとってだけ土台であるのではないのだ。
それは、われわれを構成し支えていると同時に、また呪縛してもいる土台である。
この土台の上に立ってであれ、われわれはその「外部」の存在の可能性をうっすらとだが欲望し、その外に逃れ出ることを、「現実」との対面・連関を望んで、政権交代への票を投じたのではなかったか。
いや、おのおのの主観はどうあれ、すでにわれわれの行動は、他者にとってそのような意味を持つものとして生じているといえよう。


ここで、われわれのその欲望と行動が呼び起こした「現実」とは、たとえば沖縄の人たちの怒りの沸騰であろう。
それは、われわれが選んだ政権交代の結果として、明るみの下に呼び出され、その切実さによって、いまだ「土台」の庇護を自ら否定し脱しきれずにいる、われわれ自身を撃つのである。


われわれは、土台の中にわれわれを呪縛し続けようとするあらゆる圧力に負けて、この自らの欲望を否認してはならない。
それは、おろおろと「現実」のさなかに身をさらして悪あがきをし続ける首相の、弱くあわれなほどの姿を、自分たち自身の今現在の姿として見ることを、拒んではならない、ということである。
その姿を、自分自身の今の現実の姿として率直に認める勇気だけが、言い換えれば、現実の過酷さに裸でさらされて逃避する寸前で震えて懊悩している「弱い」存在としての自分自身から目をそらさないことだけが、現に長い歳月、権力による過酷な迫害にさらされてきた生身の人々(他者)との出会いの可能性を開くのだ。
だからこそ、この「出会い」によって権力の基本構造が崩され、人々がその外へと脱出することを恐れる者たちは、(マスコミを使って)鳩山の弱々しく恥辱に満ちた態度と表情を、バッシング(攻撃)の対象として大衆の前にさらし、人々からいわば疎外しようとするのである。


鳩山が、このあがきの末に、どのような決断をするかは、もちろん分からない。
結局のところ、彼が「理念」のために自分の土台を打ち壊す道を選ぶ可能性は、きわめて低いというしかないだろう。
だがその結果がどうであれ、それは私たち自身が、自らが一度は表明した「脱出」への欲望を否認し、他者との生身の人間同士の関係を築いていく道を(欺瞞的に)閉ざしてしまうことを、正当化するものであるはずがない。

*1:ここでは鳩山一郎の政治的スタンスが「親米」だったかどうかという表面的な問題は、重要ではない。戦前から続いてきたこの国の権力をアメリカとの同盟が支えているという、その戦後日本の基本的・根底的な枠組みを、ここでは現首相の精神的「土台」と呼んでいるのである。