「女」と軍隊

前回のエントリーのなかで、チェーホフの短編「アリアドナ」のなかから、主人公シャモーヒンのこういう言葉を引用した。

そして結局、われわれは、女はうそつきだ、こせこせしてる、虚栄心が強い、不公平だ、知性が低い、思いやりがない、――要するに、われわれ男にくらべて高いどころか、はかりがたく低いんだという結論に達する。そして不満を抱いたわれわれ、だまされたわれわれに残された道は、ぶつくさ言っては、おれたちは手ひどくだまされた、と方ぼうふれまわることだけです(木村彰一訳  講談社文芸文庫『たいくつな話・浮気な女』p181)


シャモーヒンは、アリアドナという女に入れあげて疲れ果てたあげくに、こういう言葉を口にするようになるのだが、男の側の身勝手な「正義」や道徳観がどういうふうに生じてくるものかを、彼は自分の経験から正直に告白していることになる。
ことの発端は、シャモーヒン自身が語っているように、本人が相手を欲望の対象として見出したのに、その自分の眼差しのエゴイズム的な本質(それ自体は悪ではない)を否認しようとしていることから、男の、女をおとしめる物言いというのは生まれてくるわけだ。つまり、自分がいかに欲望に翻弄される存在であるかを認めたくないという心理が、女への憎悪や蔑視を要請することになる。
ここには、欲望をめぐって、もっぱら対象として見出される側と、見出す側との、憎しみ合いの原型みたいなものがあると思う。ここでは、かりに前者を「女」、後者を「男」と呼ぶことにしよう。
男は、何を見まいとしているかというと、自分と相手とが、権力や欲望についての非対称な場に存在しているという事実、つまり自分がそういう不安定な現実の一部として生きているという現実だろう。それを直視したくないために、女はわれわれよりも「低いんだ」という、ニセ道徳的な物言いが呼び出されるのだ。
実際には、われわれは彼女(彼)ら以上に、うそつきで、こせこせしていて、虚栄心が強く、不公平で・・・・、と考えたほうがいい。なぜなら、われわれは彼女(彼)たちを欲望の対象にしていながら(それ自体は相手も同じだが)、自分の特権的な位置を守るために、そのことに頬かむりして、相手に罪や不正義を押し付けることもやってのけられるからである。


ここで思い出すのは、やはり先日のエントリーで、映画『トンマッコルへようこそ』のストーリーが最終的に「戦うこと」や軍人の存在の価値を賞賛しており、「平和」を謳ってはいても「反戦」を主張するものでは必ずしもないと思えることに、ぼくが違和感を持ったと書いたことだ。
その気持ちは、妥当なものであると思うのだが、同時に、朝鮮半島がずっと置かれてきた軍事的・政治的な現実、またそれと自分自身が置かれてきた位置との比較や関連を、
その「違和感」をとおして考えるということは、大事であると思う。
つまり、平和の大事さを語るときでさえ、軍隊の存在や国防の意義を、先験的に否定することができないような位置に、あの国の人たちは置かれてきた。そう言えるのかもしれない(沖縄のことなどを考えれば、こう書くことにはためらいもあるが)。
これはもちろん不幸であるし、また「国」や「軍」を持つことが、それ自体暴力性をもつと考えれば、「不幸な位置」といってすませるわけにはいかない他者への責任のようなものが、あの国の人たちの側にあることも事実だろう。
だから、(かりにあの映画が、そういう韓国の位置と深く結びついているとして)それに同情したり配慮して、日本に住むわれわれ(とくに「平和」を論じる人々)は口をつぐめ、ということにはならないが、それでもそういう重苦しい現実を生きざるをえない人たちが、自分たちの近隣に現に居るということの意味を考えることは、たぶん大事である。
平和や反戦を主張するにおいても、その事実の重さを踏まえた主張であれば、より力強い、世界の多くの人に訴えかけられるものになると思う。


これが、さきの「アリアドナ」の話とどうつながるかというと、どちらも他人が生きている現実的な状況をきちんと見つめるということが大事だ、ということである。
女を「低い」と言って蔑んだり、韓国の平和思想の限界を簡単に批判する(もちろん、批判すべき部分はあるだろう。というか、あの映画だけから、そういうことを一般化して論じられるとも思わないが)ときに失われるのは、実は他人が生きる現実についてのリアリティーだけではなく、自分(たち)が生きている現実の特殊な位置についての意識なのであり、その喪失は自分の身体をいつか世界から遊離させてしまい、閉じられた空虚な一生を送ることを、ぼくたちに余儀なくさせるものであると思う。