競争を望むのは誰か

毎度同じ人の話題で恐縮だが、橋下大阪府知事が、府内の公立小学校の35人学級編成を見直す方針を示したそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080209/edc0802092055005-n1.htm

http://www.asahi.com/life/update/0210/OSK200802090119.html


また、毎日新聞の報道によると、これによって生じた余剰人員を知事自らがすすめようとしている学力別クラスの教員に当てるという考えもあるらしい。


毎日の報道が事実だとすると、そこには、生徒個々へのきめ細かな対応とか、教員自身のゆとりといったものから生じるであろう教育現場のある種の質を犠牲にしてでも、別の種類の質、つまり学力の高い子どもたちのさらなる学力のアップ、ということを充実させようという明確な意図がみえる。
橋下知事は、このほかにも府立高校の学区撤廃とか、母校でもある府立の名門校北野高校の中高一貫化などを唱えて話題になっているのだが、学力のアップを掲げて公教育の改革をすすめようとしているのは、別に大阪だけの話ではないだろう。
いわゆる「ゆとり教育」とか「平等主義」に対する反動のようなものもあり、たとえ学力の格差のようなものが広がる結果になっても、とくに学力の高い子どもの能力をさらに生かしていくような教育システムに変えていくべきだ、という主張がされることが多い。



こうした主張のなかで、いつも聞かれるのは、「今の悪平等の教育システムでは、勉強のできる子、もっと学力を伸ばしたいと思ってる子たちが可哀相だ」といった言い分である。
しかし、これはまったくおかしな言い草だと思う。
自分の好きなことを学びたいという意欲は、「学力のアップ」ということに重なるとは限らない。入試やテストの成績の向上という目的にだけかなうように、子どもたちの学習への意欲を枠の中に押し込めようとしているのは、大人たちではないか。
要するに、成績のいい子ども、学力の高い子どもを作りたい(育てたい)と思っているのは、あくまで大人たちであって、その自分たちの願望のために大人はさまざまな「教育改革」をやろうとしてるのである。それを「子どもたちの願い」の実現(救済)のためのように言うことは、欺瞞だというのだ。


また、子どもがテスト(の点数)や授業で他の子どもとの競争に勝つこと、入試で他人に勝利することに、やりがいや意欲を示したとしても、それは競争ということのなかでしか自己を確認できない、承認されている感覚が得られないような仕組みを作り上げている、大人たちの側に原因があるのである。
自分たちで原因を作っておいて、その狭い場所のなかに子どもたちを追い込んでおいて、そこで「生きがい」を得ようともがいている姿を指差して、「この子どもたちの意欲を満たすために、もっと勉学の場を」、という風にいうわけである。


付言すれば、こうした学力アップのための改革を、むしろ親たちは歓迎している、というふうにも言われる。
これも同じ事で、親たちが「学力のアップ」だけに血眼にならねばならない社会の仕組みこそが、問われ変えられねばならないのである。


付記:「学力」という言葉は、ここでは「成績(の向上)」とだいたい同じぐらいの意味で用いました。そうでない広い意味での学力の向上には、むしろ今切り捨てられつつあるような「質」こそが必要であると思うからです。