橋下改革への疑問・期待・提言

きのうとりあげた橋下知事同和問題をめぐる発言は、やはり少なからず話題を読んでいるようだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080307/lcl0803072236009-n1.htm


もちろん日本共産党と当事者運動・解放運動との齟齬の歴史というのは、戦前から続いている(日本本国の朝鮮人労働者の独立闘争についてのコミンテルンの指令や、反原水爆運動など)ものであり、というよりもこの点こそが、マルクス主義運動の(左翼内部における)最大の問題点とされてきたものでさえあろうから、現在の共産党と解放同盟との対立も、その文脈に関係づけて考えることがまったく間違いではないだろう。


だが実際には、この対立がここまで激化した理由は、「同和行政」といわれるものに関して権力と運動との癒着の構造が生じ、人々の生存や差別の解消(それも生存に関わる問題だ)のためにほんとうに必要なところに救済の手が届かず、行くべきでないところに金が流れ続けるという現実があったゆえだろう。
だから、この問題に関する共産党の物言いや態度に、たしかに目に余るものが多々あるとは言っても、「本当に追いつめられている人を救う」ために、力を持つ人たちの権益に公費が吸収されていくような構造を正さねばならないということ、そのような悪しき構造を大阪府が抱えているということは、やはり認めねばなるまい。


橋下知事の「改革」に、期待すべきものがあるとすれば、結局はそのことだ。
なぜ不正が正されねばならぬかと言えば、それは不正の存続によって生を危うくされる人々がいるからであり、究極的にはそれ以外の理由などない。
たとえば、先日知事が「ピース大阪」を視察したとき、「年収一千万の府職員と、年収150万の非常勤職員の格差」が明るみに出て、知事は府職員の給料の高さだけを問題にしていたが、もっと問題なのは「年収150万」しかない非常勤職員が、「公共の仕事」の名のもとに雇用されているということであり、そのことと閑職の府職員の特権的待遇とがセットになっているという、行政の構造こそが問題なのである。


公共施設のことについては色々書きたいこともあるが、ここではもっと基本的なことだけを述べておく。
それは、何(誰)のための改革であるべきか、ということである。


橋下知事は、財政改善のための改革に関して、「セーフティネットだけは守る」とくりかえして言う。
だが、大事なことは、セーフティーネットは、「維持する」べきなのではなく、現状が足りていないのだということである。だから、これは強化されていかねばならない。
なぜ「足りていない」のかというと、上に書いたように、行くべきでないところに金が流れているからだ。それを修正して、ほんとうの「セーフティーネット」の部分に回るようにするのが、府民の「命」のための改革というものだろう。


橋下知事がよく言う論理は、こうである。
「いま出費を削って赤字をなくさなければ、府は財政再建団体に転落し、セーフティネットさえままならなくなる。だから、今徹底的な予算の削減をやるのだ。」
それが事実なら、「財政再建団体」になってはならない根本の理由、そのために予算の引き締めをやらねばならぬ究極の理由とは、人々の最低限の生活や生存を守るということ、つまりセーフティーネットの確保のため、ということだろう。つまり、改革を行う根本の目的は、「人の命」だということだ。
それなら、今現在そうした危機的な状況にある人たちの生を救うための出費は、たとえ財政破綻の危険が増大する可能性があっても、確保されねばならない。
そうするのでなければ、知事の言っていることの筋が通らない。


ところが、今橋下知事が提唱しているプランのなかには、すでに、そうした人の命を守るための根幹を軽視するかのような方向が見られるのである。
そのひとつの例は、教育に学力重視、競争重視の論理を徹底させようとしていることである。
「夜スペ」の藤原校長を府の特別顧問に要請したいという意思を持っていることも報じられた。
こうした競争による学力偏重の教育方針が、なぜ「人の命」の問題に関わるといえるのか。
それは、たとえば学力別(習熟度別)のクラス編成などを通して、子どもたち(学力の高低を問わず)が競争第一の価値観を内面化していくだろうからである。
学校の外の社会、企業社会を支配している価値観、企業にとって有用であるようなその人の「学力」の高低・有無が、他人や自分の命にまで優先すると考えさせるような世の中の価値観を、子どもたちが学校の場で、教育のなかで内面化してしまう。


こうした社会全体の価値観による子どもたちへの影響は、これまでもすでにさまざまな結果を生じさせてきているだろう。
見やすい例で言えば、それはたとえば、「野宿者への襲撃」という生死に関わる行為を引き起こす結果を招く。
生田武志さんがホームページで、学校での野宿者問題の授業の必要性に関して、記事(呼びかけ)を掲載しておられて、是非読んでもらいたいのだが、
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays12.htm

競争を至上のものとする今の社会の価値観が、子どもたちに内面化され、影響を与えたことの結果として、「競争の落伍者=価値のない者」と見なされた野宿者への破壊的(ときに自己破壊的でもある)行動を引き起こしているのだろうことは、想像に難くない。
橋下知事が掲げるような競争重視、学力偏重の教育によって、そうした価値観がなおいっそう子どもたちの内面に刷り込まれていくなら、こうした「改革」の効果は、「人の命」の尊重ということとは、まったく相反するものにならざるをえないだろう。


橋下知事には、「セーフティーネットは守る」と口先で言うだけでなく(官僚政治家の答弁と違って、そこになにがしかの「思い」が込められていることを、ぼくは信じたい)、人の命を守るためになすべき政策と改革とはどういうものかということを、よく考えていってほしいのである。


「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論