眩暈がするほどひどい

夜明け前にこの件の「先送り」についての記事を書いたけど、直後にもうこんな情報が流れてたんだよな。
そして、法案そのものはすでに可決。


http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003110535.html

http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003110535_01.html



しかしこれ、文科省が考えてる省令って、誰が考えても朝鮮学校をピンポイントで除外するという目的のために考え出された文面だ。
「外交ルートを通じてそれを本国に問い合わせることが可能であること」って、「国交がない」だけじゃ台湾系の民族学校も除外しなくちゃいけなくなるから、わざわざ付け足したんだろう。よく悪知恵が働くよなあ。
そもそも排除を先に決めてなければ、こんな文案をひねり出す必要はなかったのだ。
普通は何らかの法的規定があり、それに照らして適用するかどうかを決めるのがまともな法治国家というものだろうが、この場合は、除外したいがために、それを正当化できるように法律(省令)を作り上げようというわけである*1


こんな露骨な公的排除を経験した人たち、とりわけ子どもたちの心がどういう風になるか、考えたことがあるのか?
よく朝鮮学校について、思想教育をしてるからとか、反日的な教育をしてるんじゃないかという疑いを口にする人がある。だが、当たり前だが、朝鮮学校は日本にある学校であり、そこの子どもたちは日本の町に住み、日本の子どもたちと遊んだりしながら成長していく。当然ながら、日本の新聞、テレビやインターネット、書籍に触れながら大人になるのだ。
日常の情報は、客観的なものも、差別的だったり偏向したものも含めて、みな日本のメディアなり人なりから入ってくるのである。
かりに学校でどんな教育をされたって(言われるような偏向した教育は存在しないと思うが)、たとえば日本について、実際と異なるネガティブな意識など、持ちたくても持てるはずがないだろう。
ところが、こういう政府や社会の差別性とか、自分たちの都合のいいように法律を作り変えてしまう、この国の権力の恣意性をわが事として突きつけられれば、誰だって、この国で生きていくことに絶望しそうになるに違いない。
いわば、こうした政府や政治家のやり方、態度は、在日の子どもたちに無理やり日本を嫌いにさせたり、日本で暮らしにくくなるように仕向けてるようなものなのだ。


たとえば、朝鮮学校に通おうとする子どもたち(その保護者たち)の場合、こんな露骨な扱いを受けて、「朝鮮学校に通ったり(通わせたり)、朝鮮という国と関わっていたら損だから、日本の学校に通わせよう」という気になるか?
もちろん、苦しいところに追い込まれてるのだから、やむなくそういうふうに方針転換する人もいるだろうし、それは何ら責められることであるはずがないが、人情としては、「そこまでされるのなら、こんな差別に負けない誇りを持った人間に育てるためにも、無理をしても朝鮮学校で民族教育を受けさせよう」という親、またそのように考える子ども・学生が多くて不思議はない。
政府のこの排除的な政策は、そういうところに、無理やり多くの人を追いやっているともいえる。つまり、国家や民族が個人にとって重荷であり頚木であると言うならば、そこに子どもたちを追いやっているのは、他ならない日本の国と社会なのだ。


いずれにせよ、この政策(とも呼べないほど悪質なものだが)は、多くの在日の子どもたちや人々を、ますます日本で暮らしにくくするために編み出されたもののようである。
「共生社会」とやらが、聞いてあきれる。これでは戦後の、在日朝鮮人に対する最悪の行政の思想の歴史(いわゆる帰国事業にもこれが関係していた)と、どう違うのだ。
要は、「意に沿わない者」(昔は、「まつろわぬ者」といった)を排除してしまいたいという、この社会の悪しき人心(それも権力が構成したものだが)を助長してるだけのものだ。






私は、朝鮮学校の教育を理想化して、それが特に守られるべき特別なものだといいたいわけではない。
たしかに、何度か朝鮮学校を訪問したり、学生たちと一緒にキャンプをしたりした経験を通じて(あくまで「お客さん」としての印象だが)、そのコミュニティに独特な暖かさを感じ、とりわけ日本や韓国*2のように「イジメ」が常態化した学校の実情を知る者からすると、そこは理想的な環境のように思えたりもする。
またやはり経験上、朝鮮学校出身の友人の多くは、私を含めたたいていの日本人よりも、国家や制度というものに対して自由な、普遍的な感覚と考え方をもっているようにも思う。
本の学校との比較において、そこには真の思考の自由さを可能にする何かの条件がはらまれているのではないか、とも考えたくなる。


だが、私は(日本の学校のことならともかく)、朝鮮学校のことについてもちろん多くを知ってはいない。そこで学んだ人たち、学んでいる子どもたちが実際にどう感じ、考えているか知らないし、だからこの学校の(相対的な)良し悪しを、もちろん論じるわけにはいかない。
それに、かりに上に述べたような感想が正確なものだったとしても、そういう優れたものを可能にする条件が、民族学校である朝鮮学校に限るのでなく、どの学校、どんな場においても満たされるということが、きっと社会の理想だろう。
言い換えれば、こうしたマイノリティの子どもたちの自由でしなやかな自己形成が、民族教育の場でなければ実現できないということが、この社会の異常さをあらわしているのかも知れない。
その意味で、民族学校は、われわれの社会が本当に望ましい(差別のない)社会になった時には、もはやその必要性がなくなるべきものかもしれない、そうも思う。
だが、この社会の現状が、到底そんなものではないことは、はっきりしているではないか。





また、橋下など朝鮮学校を非難する人たちの発言を聞いていて、よく思うことは、この人たちは、国家と教育とが当然重なるものだと考えているらしい、ということである。
だが上に書いたように、私の経験から言うと、朝鮮学校の出身者たちの方が、たいていの日本人よりも国家や制度に対して、はるかに自由な考え方をもっている。私は先に「マイノリティは政治的であることを強いられている」という意味のことを書いたが、それは国家との同一化という意味ではない。むしろ、あらゆる国家(日本に限らない)に対して距離を置いて捉えざるをえないということが、在日朝鮮人のような国籍や民族に関わるマイノリティの特徴ともいえるだろう。
在日はみなそういうところがあると思うが、朝鮮学校出身の人には、特にそれを強く感じるのである。
これはきっと、在日朝鮮人というマイノリティである彼らの社会的な位置に由来するものなのだろう。ただ朝鮮学校の場合、日本の学校よりも、その位置に由来する個人的な感覚を自ら抑圧することへの強制が強くない、ということがあるのではないかと思う(もちろん、学校である以上、抑圧や強制がまったくないということはないだろうが)。
そういう日本社会の、マイノリティに対する制度的なプレッシャーから個人を防御するという役割を、たしかに現在の朝鮮学校は果たしていると思う。


ところが、このような国家に対して相対的な位置を保っている(その位置にあらざるを得ない)人たちに対して、何か特別に国家に強く色づけされた人間であるかのように、偏見を向け、攻撃する人たちが居る。
そしてこの人たちの方こそ、教育を国家の色に染め上げたいと日々願っている者たちなのである。
私はここに、大きなねじれのようなものを感じる。


たとえば、朝鮮学校から誰それの肖像画が外されるという風なことは、私はきっと望ましいことだろうと思う。
だがそれが望ましいのは、それが(朝鮮という)特定の国の指導者の肖像画だからではなく、どこにおいても教育は国家から自由であるべきだからだ。
ところが、日本で今、朝鮮学校のあり方にいちゃもんを付けている人間の大半は、教育を国家に従属させることを欲している者たちなのである。

*1:政府はそこに丸投げしたいみたいだから、事実上法律だろう。

*2:朝鮮学校に詳しい韓国人の友人もこうした感想を言っていたから、引き合いに出すのだが。