雪・府政・スピノザ

大阪は積雪。
日中は、一日中ボタン雪みたいなのが降ってた。
積もるというより、路上ではシャーベット状になってる。


橋下知事財政再建方針は、さっそく色んなところに波紋を広げてるようだ。
基本的にテコ入れしないといけない部分はたくさんあるだろうけど、単純に考えて、これまで府や自治体の仕事としてやってきた事を財政難を理由に全部切り捨ててしまったら、府民生活のベースの部分に余裕みたいなものがなくなって、経済も生活ももっと悪くなるように思うんだけど、そういうことにはならないという確信があるのかな?
自分は大阪府財政破綻させないために知事になったのだから、自治体の仕事の公共性を犠牲にしても財政の「健全化」だけをやる、という悲壮な覚悟だろうか?
でも、公共体の仕事として、財政がどんなに逼迫しててもこういうことはやる、ということをはっきりしておかないと、何を残して何を切り捨てるかの選択が論理的に出来ないんじゃないかな?
今の調子だと、結局議会とか役所とか取り巻きの思惑の方に引っ張られていってしまうと思う。



スピノザと表現の問題』(ドゥルーズ)を、頭が痛くならない程度に読む。

スピノザと表現の問題 (叢書・ウニベルシタス)

スピノザと表現の問題 (叢書・ウニベルシタス)


書いてることの一割ぐらいは理解できてるだろうか?
「(実体の)諸属性の一義性」という言葉が出てくるが、「諸属性」と言っても、スピノザの場合は、人間が認識できる実体の属性は「延長」と「思惟」の二つだけということになってるので、この言葉の意味は実際は、「延長と思惟との一義性」ということなのだ。
スピノザの「属性」という言葉の意味なんて、まったく忘れてて、読みながら「ああ、そうだったなあ」と思い出した。
ドゥルーズドゥルーズ=ガタリの本を読んでいると、書かれていることが、潜在的にもせよ実際に起こってることについてなのか、それともそのことについての思考の内容についてなのか、時々分からなくなる。
でも、延長(世界)と思惟とは一義的、というふうに言われると、その分かりにくさもある意味当然なのかなあ、と思う。
スピノザにしてもドゥルーズにしても、その思想は、多数多様的ではあるが、決して多義的ではないのだ。
とはいっても、「延長と思惟とが一義的」というのは、直観的にはすごく納得しにくい考えではある。
(スピノザはよく知らんけど)ドゥルーズの思想のと言ったらいいのか、西洋の思想のといったらいいのか、その辺が一番とっつきにくい部分だ。