『経験論と主体性』メモ・その2

わたしたちに残されている選択は、誤った理性か、さもなければ理性がまったくないか、のいずれかを選ぶことでしかない。(『人性論』より。本書p123)



第4章「神と理性」に書かれていることで、もっとも強い印象を受けるのは、次のようなことだ。
ドゥルーズによれば、ヒュームが考えたことの要点のひとつは、「世界」が存在するということは、認識の対象ではありえず、信念(信仰)の対象でしかありえない、ということである。
われわれが現に知覚しているという事実と、その知覚をもたらしている対象が存在するという確信との間には、無限の距離がある。われわれは、自分が現に知覚している全ての事柄が、夢や狂気のなかの事柄ではないと断定する根拠を持たない。
にも関わらず、われわれはそれが夢や狂気ではないということを、確かに知っているかのように生きている。そのことこそが奇跡なのだ。
それを可能にしているのは、本来は知覚の対象でありえないはずの「世界」そのもの、知覚可能なあらゆる存在者が出現してくる「潜在的地平」としての「世界」(宇宙)という「虚構」(理性にとっての)を、われわれが信じていることなのである。
すなわち、われわれの全ての認識や理性的思考は、理性によっては決して根拠づけられない信念(信仰)を根底に組み込むことなしには成立しない。
以上のことに関係する箇所を、いくつか引いてみる。

言い換えるなら、物質的な対象や反復は、世界[あるいは《自然》]のなかにしか存在しないのである。世界そのものは、本質的に《ユニーク》なものである。それ[世界そのもの]は、想像の虚構なのであって、けっして知性の対象ではない。要するに宇宙論(コスモロジー)はみな、いつでも空想的なものである。(p106)


たしかに宇宙論は、いつでも空想的だが、忘れてならないことは、社会の中ではあらゆる「理性的人間」が、宇宙論という空想に基づいて生きている、ということである。
サラリーマンも、主婦も、フリーターも、農夫も、兵士も、みな宇宙論という空想をたずさえ、それに基づいてのみ生きている。宇宙論なしで生きるほど、人間は強固ではない。おそらく、精神病者にもなんらかの別種の宇宙論があるんだろう。実を言えば、人は宇宙論(という信念)なしでは生きられないばかりでなく、それなしには死ぬことも不可能な存在なのだ。それは、恐ろしいことである。

(前略)反対に、[物体あるいは対象の]連続的で[近くから]区別される存在は、(中略)ひとつの特殊な[個別的な]対象ではない。それは、《世界》一般の特徴である。それは、一個の対象ではなく、あらゆる対象の前提になる地平[対象を浮き出させる潜在的な場]である。(p116)


ところで、こうしたヒュームの議論のもっとも重要な点は、ドゥルーズによれば、理性自らによって根拠づけることができないという、われわれの理性的な生(社会)の特質を、むしろポジティブに捉えたといえるところにある。

物体の存在を信じる信念とともに、虚構は、人間的自然のひとつの原理へと生成する(p116)

想像は、《世界》を携えて、本当に、ものごとを構成し想像するものに生成している。(p118)


さらに、ドゥルーズはそれが「妄想」としての「哲学的システム」の力の発見へと結びつくことに注意を促している。

精神自身の自然[本性]に対立して、精神自身の空想を通用させること、これが精神の自然[本性]へと生成してしまっている。ここでは、もっとも狂気に満ちているものが、それでもなお自然的なものである。[知の]システムは、狂気の妄想である。(p122)

精神のなかで、理性と妄想とが分離可能であること、すなわち、永続的で有無を言わせない普遍的諸原理と、変わりやすく空想的で不規則な諸原理とが分離可能であること、これを期待するのは、だからこそ、当然の結果として無駄であろう。(p124)

知性の機能、つまり何ごとかについての反省(レフレクシオン)は、もっぱら矯正的である。だが知性は、それだけで機能するときには、ものごとを無限におこなうことしかできず、自分がなす矯正をさらに矯正することしかできない。その結果、あらゆる確実性[確信]は、実践的な確実性にいたるまで、危険にさらされ失われてしまうのである。(同上)


これらの文章は、ずいぶん過激な、ないしは懐疑的・虚無的な主張のように聞こえるが、導かれる思想的・政治的な態度は、そうしたものではない。

痴呆は、精神に委ねられた人間的自然[人間本性]であり、良識[理性]は、人間的自然に委ねられた精神である。一方は、他方の裏返しなのである。良識の躍動を見いだすためには、だからこそ、痴呆と孤独の根底にまで到達しなければならない。(中略)おのれの諸変様に委ねられた精神は、一般規則と信念との領域、つまり中庸にして穏健な区域の全体を構成している。(中略)要するに、学問と生活は、一般規則と信念の水準にしか存在しないということである。(p125〜126)


ここまで来ると、ドゥルーズがヒュームの思想から継承したもののひとつがおぼろげに見えてくる。それは一言で言えば、「真の保守主義」と呼べそうな態度である。
われわれは虚構への信なしには生きられない存在であるからこそ、懐疑や不信を徹底して虚構そのものを破壊してしまってはならないのである。
われわれがとるべき道は、「誤った理性」しか持ちえないという自分たちの特性をよく理解したうえで、その理解の上に立って、誤りを矯正し続けるような理性的生のあり方を実践することだ。
こうした態度は、はるか後年の『千のプラトー』へと受け継がれていくドゥルーズの考えであろう。


この本でドゥルーズが繰り返し強調するヒュームの思想の核心は、人間の精神は、外から何らかの「強制」が加えられなければ、何ものでもないということだ。
強制(虚構・制度)なき生(自由)は無力である。
だが、知性の原理や、信念という強制が加えられることにより、精神はその加えられた力の形式を利用し、それを内在的に超え出ていくような奔放な能力・権能を、遂に我が物としうるのである。
これこそまさに、比類なき「哲学研究者」ドゥルーズが、ヒュームたち大哲学者の思想に深く内在しながら、実践しようとした道のりでもあったろう。