一般意思あるいは公共性について

6日に大阪府知事に就任した橋下徹氏のこの発言だが、考えさせられるところがあった。
http://www.asahi.com/politics/update/0202/SEB200802020019.html

橋下氏の発言が飛び出したのは1月31日。3日告示の岩国市長選で艦載機移転容認派が推す前自民党衆院議員の福田良彦氏を応援するビデオ撮影に応じた後、「防衛政策に自治体が異議を差し挟むべきではない」「間接代表制をとる日本の法制度上、直接民主制住民投票の対象には制限がある」と持論を展開。井原氏が「国民が国政にものを言うのは当然」と反論すると、1日に「憲法を全く勉強していない」などと再反論した。


ぼくの印象では、橋下氏が当選した府知事選や、昨今の国政選挙を含め、最近の選挙は間接民主制への不信と無関心の上で行われている。
間接民主制の擁護を述べているかのような橋下氏の発言が奇妙な印象を与えるのは、間接民主制の形骸化(人々の無関心)に乗じるようにして知事の座を得た当人が、その制度を軽視してはならぬと口にしているからだろう。
だがおそらく、橋下氏の発言の真意は、間接民主制の擁護(その意味で憲法を尊重せよとの主張)というよりも、国の防衛政策が特定地域の住民の意見、またそれを取り入れた自治体側の意見によって阻まれたり左右されたりすることがあってはならない、という点にあるのだろう。
国家の政策が地域の住民に圧迫を加える可能性があるのに、住民の生命・生活を守るべき自治体の長が、国に対して「異議を差し挟む」ことをしないことこそ、民主政治と憲法の危機というものだろうと、ぼくは思うが、橋下氏にはそういう発想はないのだろう。
だが、ここで考えたいのは、そのことではない。


このところ雑誌などで、間接民主制悪玉説みたいなものをよく目にする。
間接民主制を批判する人は、次のように言う。より望ましい制度は直接民主制なのだが、社会の規模が大きくなるなど技術的に無理になってきたので、仕方なく間接民主制を採用しているのである。だから、住民投票などの直接民主制的方法こそ(言わば)民意を正しく反映するものであり、必要で可能な場合には、それをどんどん用いていくことこそ民主的な方法である、と。
だが問題は、「間接民主制か、直接民主制か」というところにあるのだろうか。


今の日本の政治のあり方が歪んだものであるのは、制度に第一の問題があるのではない。間接民主制であっても、直接民主制であっても、そこで示される人々の意思がたんなる個別の利益追求の集積であって、公共性を欠いているなら、それは形ばかりの民主制、権力に思いのままに利用されるような民主主義にすぎないと思うのである。
実際、今回の府知事選にしても、最近の国政選挙(与野党のいずれが勝利しようと)にしても、投票結果が示しているものは、おおむねそうした個々人(あるいは個々の集団)の利益追求の集積でしかない。
一方、住民投票においても同じことが言えるのであって、そこに他者を顧慮しない「私」の利益の追求しかないのならば、それは公共性を忘れた民主主義の死骸のようなものであって、民衆を操作しようとする国家や権力にとってはまことに好都合なものなのである。
直接民主主義的な手段が有効性をもちうるのは、現行の間接民主主義が国家や行政の意思の一方的な押し付けを正当化するものとして働く場合、それを牽制する限りにおいてのことである。「住民投票」のような手段は、その意味では必要なのだが、そのことを離れれば、それがたんなる個々人(特定地域に住む人々)の利益確保のための意思表明でしかないのなら、たんに不正義なことでしかない場合がある、ということである。


上の岩国のケースで考えるなら、「移転」を拒むという個々の住民の意見が尊重されることは、たしかに重要である。
ただ、「移転」がもし本当にやむを得ないものであった場合(本当は、ここが重要なのだが)、私が「移転」を拒むということは、他の誰か(どこか)が「移転」を引き受けるということを、ただちに意味する。もっと言えば、私は「他の誰かに引き受けさせよ」と、ここで暗に言明していることになるのである。
もし事態がそのようであるなら、それは「地域エゴ」ということ、つまり公共性の欠如という以外のことではないだろう。
というよりも、権力ははじめに「どこかには移転せざるを得ない」ということを動かせない与件のように置くことにより、つまりこの与件の妥当性を問うところまでは人々の意識を向かわせないようにすることにより、人々の意見表明についての自意識を「エゴの表出」(個別の利益追求)の範囲に押し込み、そのことによって人々の間における公共性の発生を阻もうとするのである。


だから必要なのは、ある不当な政策に対して、その政策による被害を被る当事者でもある(ありうる)私が「ノー」を言うとき、その拒否や抗議が(もしくは賛同が)、どこに基づくのかを明確にしようとすることである。
言い換えるなら、私が「ノー」を言う場合、その言葉のなかに「私に関してはノーだが、他人にとってはどうであってもかまわない」という意味合いが無意識に込められてしまうのであれば、それは「公共性の欠如」のなかに自分を追いやっているということであり、官制の「公共性」のなかにわれわれを取り込もうとする国家や権力の思惑通りに動いているに過ぎないことになるのである。


ルソーは、各人の特殊な意思の単純な合計としての全体意思と、公共性を獲得したものとしての一般意思(意志)とを区別したそうである*1
われわれがわれわれの意思の表明を(間接民主制であれ、直接民主制であれ)、全体意思ではなく、一般意思として行うためには、つまり公共性を獲得するためには、われわれの切実な叫びの根底にある感覚、ないしは価値観といえるものを丁寧に見極める姿勢が不可欠だと思うのである。


その感覚とは、私の生存や生命と他人の生命や生存とが、命としてひとつながりのものであり、同等の価値を持つものだという感覚、価値観ではないだろうか。
生死の境の状況に追い込まれたとき、人は自分や家族の生命を守ろうとして必死になるだろうが、その「特殊的」な行為(抵抗)が体現しているのは、私(たち)と他者の生命・生存がひとつながりで同等であるという感覚(価値観)である。
私が不当な政策に対してノーを言うという行為が、そうしたところから発するものであると自覚されるなら、そもそもそうした政策(たとえば「移転」という事)が誰に対しても(どこにおいても)なされるべきではない、という考えがそこには生じてくるであろう。
つまりこの主張(意思表示)は、公共性を獲得して、一般意思を表すものとなるはずである。
その時はじめて、「移転」をやむを得ないものとする(押し付けられた)論理(与件)への批判が、譲れない価値によって要請される切実さと正当性のもとに開始されるはずだ。
われわれが、真に権力に対抗するとは、そういうことだろう。


われわれは、自分の生活や生存を脅かすような政策に対してノーを言うとき、そうした政策が私一個の生存ばかりでなく、生存という普遍的な価値をも侵害するものであること、私の「ノー」がその普遍的なものの侵害へと向けられた意思表示でもあるという事実に、自覚的である必要がある。
「公共性の欠如」という使い古された言葉が(政治家、権力者たちの言い分に反して)意味しているのは、そういう生存の普遍的な価値の忘却ということであろう。
じつはその忘却こそが、もっとも権力を利しているのである。

*1:雑誌『現代思想』一月号掲載の対談の中の萱野稔人氏の発言による。「民意とは何か」と題された特集を組んだこの号は、たいへん勉強になった。