『<主体>のゆくえ』

〈主体〉のゆくえ-日本近代思想史への一視角 (講談社選書メチエ)

〈主体〉のゆくえ-日本近代思想史への一視角 (講談社選書メチエ)


学識と鋭い洞察、そして見事な手際の良さによって、日本で生れた「主体」という思想用語の、奇妙で複雑な来歴が語られ、言葉に翻弄される歴史の姿が浮かび上がる。


まず第一章では、ヨーロッパの文脈が語られる。ここでは、「主体」という翻訳語の原語である、英語でいうとsubjectという単語が、語源的には「下に投げること」という意味の言葉であり、「属する」とか「支配下にある」といった意味合いを含むものであるにも関わらず、なぜそれとは正反対の「主体」や「主題」という意味の語として広く使われるようになったのかという謎が、この語のさらに原語であるギリシャ語の「ヒュポケイメノン」という単語の歴史にまで遡って解明されていく。
ここで重要なことは、「ヒュポケイメノン」には、あらゆる事象がそこから発現・発展していくような、(名指しえない)「基体」という意味があり、この「基体」が事物の「実体」だと考えられた、ということである。著者の詳細な記述を大幅にはしょって言えば、これが、「ヒュポケイメノン」の翻訳語として、「下にあるもの」という意味合いを持ったsubjectなどの単語が選ばれた主たる理由ということになるだろう。
その後デカルトによって、神ではなく「思惟する人間」こそが「実体」であるという決定的な転倒が行われ、しだいにsubjectという語が「人間的主観/主体」のことを指すという、自明の観念が定着することになったのだという。こうした「主体」への信仰は、やがて、ニーチェハイデッガーらによって批判されることになる。


続いて第二章では、明治の日本で、「主体」という翻訳語が選ばれ、定着していくまでの複雑な過程が、シニフィアンの「戯れ」に人々が引き回される様子として描かれるのだが、本書の山場は何といっても、第三章から五章までの、西田幾多郎三木清をはじめとする京都学派の哲学と、「主体」という言葉との関わりだろう。
特に印象深かったところを引いていく。
まず西田哲学については、「場所が場所を自己限定する」という、中期のいわゆる「(真の無の)場所」の論理が、「実体を認めないラディカルな関係主義」とも言えるものだとして、著者によって高く評価される(p77)。上記のデカルト以来の「主体」(思惟する人間)の絶対視や主客二分法といった近代主義的な思考を解体する意義をもつものだ、ということである。
この重要な段階を経て、その後西田の関心は、「主観」に関わる問題、つまり認識論や判断論の領域から、「主体」の問題、すなわち「行為」(実践)の領域に移行していったという。


だがここで「主体」という言葉が、西田哲学に登場する決定的な契機となったのは、他ならぬマルクス主義の衝撃だった。
それは具体的には、西田の弟子である三木清によって京都学派全体にもたらされたものであったが、その三木が西田とともにマルクスの思想のなかでもとりわけ重視し、またその後の日本の思想史と「主体」という言葉をめぐる歴史にも重大な影響を及ぼすことになるものが、(マルクスの)『フォイエルバッハ・テーゼ』であった。
三木は、そこでのマルクスの言葉を解釈しながら、独特の「人間学(アントロポロギー)」的なマルクス観と「主体」概念とを形成し、西田を含めた京都学派とその周辺の人々に影響を及ぼしていく。
著者によれば、三木が考えたのは、個人のような対象化されたものとしての「主体」ではなく、自然に働きかけて歴史を作り上げていく「対象化不可能な直接性」としての「事実としての主体」であったという。
ここのところを読んだときには、正直、『存在と無』でサルトルが言っていたこととどう違うのか、よく分からなかった。今も分からない。
三木のスタンスについての著者の肯定的な姿勢は、23歳で書かれたというその最初の論文についての、次の文章に端的に示されてるようである。

たんなる認識や観照を拒否し、「働くこと」に重きを置くこの個性に対するスタンス、これがその後の三木の哲学を一貫する基本スタンスでもある。問題の「主体」は、この個性が歴史と出会う場面で登場してくるのである。(p89)


この後、第5章では、太平洋戦争へと突き進んでいくさなかでの京都学派の哲学者たちの思想について、「主体」に照準しながら詳細な紹介と検討が行われる。たとえば田邊元の有名な「種の論理」に関しては、こう書いてある。

こうして近代におけるSubjektの成立とともに、それによってほぼ用済みになりかかっていたHypokeimenon(ヒュポケイメノン:引用者注)があらためて近代的な現象たる「ネーション」の別名として復活する。そして一方「主体」のほうは明確に近代を特徴づける近代的自我主体=個人と同一化され、それを一面的に理解してしまう自我中心主義としての「人格存在論」に対する批判として種の先行性、原基性が主張される仕組みになっているのだが、・・・(後略)(p122)


だがここでもやはり、重要な役割を果した存在として召喚されるのは、三木の思想である。
それは、京都学派の論理における「個人」と「国家」とのアクロバティック的な類推(戦争への加担につながったもの)が、どのようにして可能になったかという、思想上の問題についてだ。
著者はその重要な一因を、一切の人間がもつとされる「歴史的身体(社会的身体)」という三木の概念に見出すのである。三木自身において、この概念は、どのような認識につながったのか。
著者が三木の代表的著作と見なす『歴史哲学』(1932年頃)から、次の一節が引かれている。孫引きになるが引用しよう。

個人的身体の保存と発達とのために自然物が消費されねばならぬやうに、種族即ち社会的身体の保存と発達とにとっては個人の死滅するといふことが必要なのである。種族は個人の犠牲を要求する。個人が社会のために喜んで犠牲にならうといふのは、種族が彼の社会的身体であるためである。(p129)


個人が、種族という名の社会的身体を有するというのは、ヘーゲルの時代に生物学の世界で隆盛だった細胞説(「細胞は二重の生を生きる」)のようでもあり、著者が示唆しているように社会有機体論的な立場であることは間違いない。だがここには、後で出てくる戦後の廣松渉の思想の萌芽のようなものがあると感じるのは、僕だけであろうか?
いずれにせよ、これが非常に危険な思想でもあることは間違いないだろう。


しかし、この京都学派の思想による戦争加担への動きのなかで、著者がとりわけ注目しているのは、西谷啓治宗教哲学的思想である。そこに、西田哲学における「真の無の場所」と、「主体」との、思想的にもっとも強固な接合が見られるからだ。
ここでは、近代的な「個人的主体」の底を突き破って「根源的主体性」なるものにまで達しようとする西谷の宗教的な営為が、西田の「真の無の場所」の思想を媒介として、やがて「主体的無の立場」の獲得という主張へと至る過程が説明される。
ここで、主体と無という二つの概念は、かつてないまでに強固に、宗教的な熱情さえ帯びて接合されるのだが、それはまたなぜか易々と、戦争遂行への加担という「国家の要求」に迎合するイデオロギーに変質してしまった、というのである。

百歩ゆずって、たとえ現行のスローガンに理想を託する戦術(「意味の争奪戦」)だったとしても、このような現実国家への滅私奉公的忠誠と日本中心主義の理念は、彼らが真摯に追求した無の哲学を強引にねじまげたものと言わざるをえない。(中略)これまで見てきたように、この逸脱は「主体」から「無」へのシニフィアンの遊戯的飛躍によってのみ可能だった。(p148)


この文章からは、著者が「無(の哲学)」なるものを戦争加担の責任から懸命に守ろうとしている姿勢と同時に、そのための方途としてシニフィアンによる「遊戯」という概念が持ち出されていることがうかがえると、僕は思う。




ここで内容紹介の速度を一気に速めて述べれば、著者の理解の要所は、この主体と無との接合が、「主体性論争」から全共闘運動まで(さらにはその後に訪れる政治的アパシーまで含めて)、戦後日本の思想の場における「主体」という言葉の氾濫と流行、そしてその空虚さを伴った熱情のようなものの内実になったということにあるようだ。
たとえば、全共闘運動における「自己否定の論理」の過熱化や、その帰結と思われる内ゲバ、また運動で疲弊した若者たちの自殺といった出来事も、戦争中に機能したのと同じ、この主体(性)と無との接合に原因するものだということになる。
自身も体験した全共闘運動を振り返って、著者はこう述べる。

極論するなら、運動の高揚期において「主体性」は余計な理屈づけを必要としなかった。むしろ、それは無記であるがゆえに逆に何でも包みうる決め台詞ないし殺し文句としてその威力を発揮したのである。内容の評価を別にすれば、このシニフィアンの氾濫は戦時下の京都学派における同じ「主体」概念や「無」概念の氾濫ぶりに匹敵していたのかもしれない、それらに潜在していた危険性も含めて。(p211)


たしかに「内容の評価を別にすれば」と断ってはいるが、そもそもこの本での著者の観点は、シニフィアン自体の戯れや氾濫こそが人間の思想と行動を縛っていくということであろうから、京都学派における「主体」や「無」と、戦後の空間におけるそれらとの連続性は、やはり軽視できないものだということになろう。


また、いわゆる戦後主体性論争の中心人物となった梅本克己の思想の背後に、著者は梅本の先輩にあたる梯明秀が戦前に提唱した「主体即客体の弁証法」における「無即有」という考え方の影響があることを指摘した後、こう書いている。

ただし一言つけくわえておけば、この「無」は西田や西谷のそれとはちがって、むしろヘーゲル=田邊の弁証法における「否定」の意味に近い。(p162)


この付記が意味しているところは、梯を先駆けとする戦後の主体性の思想に胚胎していた「無」には、西田や西谷の「無」の思想が有していた大事な側面が欠けている、ということだろう。それはおそらく、「(真の無の)場所」という側面なのであり、そのことは、国家や戦争や政治的狂熱から隔絶した純粋な「真の無の場所」というものを著者が信じ、守ろうとしていることを表してるのではないかと思える。


梅本をはじめとする戦後の主体性の思想は、左翼(マルクス主義)運動のなかでは疎外革命論へと発展するが、これを批判したのが、著者の師でもある廣松渉である。西田・三木や、戦後の論者たちと同じく『フォイエルバッハ・テーゼ』を重視する廣松の、しかし独特な思想の意義について、著者は次のように書く。

このように「主体」概念を克服すべき近代の産物ととらえる点で、廣松は京都学派やハイデッガーと似ている。だが、彼はそのオルターナティブとして「無」や「存在」ではなく、「関係」を立てることによってそれらと袂を分かつのである。(p205)


著者は、このような「主体」概念の失効をつげる思想が、日本だけでなく、アルチュセールフーコーラカンなど、ヨーロッパにおいても同時期に台頭したことに大きな意味を見出しているわけだが、しかし僕には、そこには世界的な社会構造の変動という理由の他には、思想そのものの内実の何らかの共通性を見出すことは出来ず、ただたんなる共時性だけがあるとしか思えない。
ここからは僕の考えだけを書くが、著者が書いていることは結局、京都学派以来の主体と無とのカップリングにおいて、戦争加担や戦後の「空虚」な狂熱をもたらす原因となったものは、無ではなくて主体の方だということだ。戸坂潤の西田哲学批判の言い回しを真似て言うなら、無に問題があるのではなくて主体の方がよくないのだから、これをどうにかすべきだという話である。
さらに、無に問題があるとすれば、それは「主体」や「存在」の裏面であるような無の側面が悪いのである。そうではない側面、すなわち、「場所」の論理に関わるような無の側面は、政治による利用や政治への加担といった事柄とは無縁だということになり、政治性を免れた純粋なものとして温存される。
上述したように、著者の思想の力点は、この「真の無の場所」の純粋性を確保することにあると思われ、また廣松の「関係」の哲学が、戦争への関与によって批判を受けることの多い京都学派やハイデッガーの哲学から画然と区別されるのも、そうした純粋な「場所」の思想に関わってのことだと思われるのである。
だがもし、このような「真の無の場所」が実際には何らかの政治性、はっきり言えば差別性なり暴力性をはらんでいたとするなら、そこに関わるものとしての「関係」もまた、そうした政治的暴力性を帯びることを免れないだろう。「関係」の哲学が大きな意義を有しているであろうことは僕も認めるのだが、その政治的な位置は微妙である。
廣松の「関係」の思想や、それに多くを学んだであろう著者の立場が、京都学派が持っていたと同じ弱点、つまり「真の無の場所」をイデオロギーとして利用することで機能するような、この国の政治権力の構造を十分批判しうるものであるとは、僕には思えないのだ。


著者は、70年代以後にも「主体」は衣装を変えて日本の社会に生き残り、さまざまな「現代的不幸」(小熊英二)の原因になったという見方をとっているようだが、僕に言わせれば、無とセットになった京都学派的な「主体」は現在では、元の権力に満ちた無の「場所」に、つまり天皇制の空間のなかにすっかり戻ったのだ。そのことは、「種」や「ネーション」というヒュポケイメノンが再び息を吹き返している眼前の現実に目を向けるなら、もはや疑いようのない事実だろう。
僕にはむしろ京都学派でいえば、著者も共感を寄せていると思える三木清の「人間学」やその「主体」概念の方に、われわれがまだ十分批判・検討し、掘り起こし、継承してはいない何かが秘められているように思える。
ヨーロッパの文脈におけるのとは違って、この日本においては、まだ「主体」が真に見出されたことはないと言うべきなのだ。
思想に関心や志をもつ全ての人に問いたいのだが、いったいこの国の歴史上、神や天皇ではなく、「思惟する人間」こそが実体であり中心であるという立派な思想が、真にヘゲモニーを獲得したことなど一度でもあっただろうか?もちろん「思惟する人間」以外の生を考えるならば、その立派さはいまだ相対的なものにすぎないとはいえ。