『差異と反復』読書メモ・その5 受苦

年末にヴェーユの本を読んでいて、その後ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。
同じ国の(つまり同じ文化圏の)人だから当然かも知れないが、この二人は思った以上によく似ている。
それは、生の受動性ということに関してである。


ぼくはこれまで、ドゥルーズの生についての思想を、「解放」というイメージでとらえていた。
私が、私に内在する生の力(ポテンシャル)を解放するという、力強い、能動的な、「生きる歓び」の謳歌の思想であると、とらえてきたのである。
だが、この本を読むと、次のことが分かる。


解放されるのは、生の力動であって、私ではない。
私はむしろ、生の力動が行使する暴力を被るのであり、そのことを耐え忍ぶ(ことにおいて生きる)存在なのである。


無論ドゥルーズが「受動性」を強調するとき、生における行動の価値を切り下げているのではなく、行動というものにおける能動性の価値を切り下げているのだ。
だから、ドゥルーズが語っているのは、あくまで「行動」(実践)の思想であることはたしかだろう。
だが、その行動をなさしめるものは、決して私に帰属する(内在する)ものではなく、私を襲い破壊してくるような生の力(力動)なのである。
その力に強いられて、私は世界のなかで能力の「超越的行使」を行い、限界を越えるまでの強度を生きることになるのだ。
そのことが「私の破壊」にまで至ってしまう危険を避けようとすることが、後年の『千のプラトー』の重要なモチーフになっていたはずだが、ともかく、『差異と反復』では、「私」(ドゥルーズは、こんな語は使っていないが)が生の強度の全的な展開の主体ではないということ、それはあくまで受動的な存在に留まっていることはたしかだと思える。
そしてそのことが、ドゥルーズの生の思想における、いわば他者性を担保していたのではないかと思うのだ。


先日、ぼくは、この本には感じられるが、ドゥルーズ=ガタリになってからの著作には引き継がれなかったものがあるのではないかと書いた。
それは、考えてみると上記のようなことで、つまり自分の生を「受苦」としてとらえるという態度、生の力動に対する「受苦」として自分の強度的な生の達成(跳躍)をとらえるという、アクセントの置き方なのである。
これは、ヴェーユとこの本のドゥルーズには共通してあるものだと思うが、『千のプラトー』にはあまり表立っていなかった。
だがそう思うのは、あの本を読んだときのぼくに、そうした感覚が欠けていたからかも知れない。


上に書いたように、生の表現や「跳躍」を、解放というよりも、あるいは解放とはいっても、「受苦」であることにアクセントを置いてとらえるということは、他者性ということに関係してくると思うので、大事なところだと思う。
だがそれは同時に、私(自分)の生の極限的な体験を、なにごとかの犠牲ととらえてしまう危険を孕むことかも知れない。
千のプラトー』では、そういった危険性が考慮されていたのかも知れないのである。

してみれば、永遠回帰が、たとえ私たちの一貫性を犠牲にしても、或る高次の一貫性に尽すため、もろもろの質を純粋なしるし(シーニュ)の状態に連れ戻し、根源的な深さと結合しているものだけを延長から控除するならば、まさにそのときにこそ、いっそう美しい質、いっそう輝かしい色、いっそう貴重な宝石、いっそう振動する広がりが現れるだろう(下巻 p201〜202)


差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

千のプラトー―資本主義と分裂症

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