千秋楽・アナーキズム

ぼくは朝青龍に勝って欲しいけど、白鵬としては絶対に負けられない一番だろう。
どんな対決になるのかなあ?


それにしても、前半戦はやっとこさ勝ってたのに、ここまで盛り返してくるとは、朝青龍のあの強さはなんだろう。
源為朝の生まれ変わりじゃないかと思う。
モンゴルでも義経ではないな。
義経チンギス・ハーン浅野忠信か。
なんだか分からなくなってきた。


ところで、『差異と反復』をやっとひと通り読了。
ぼくがこれまでに読み通した本のなかで、たぶん一番難しかった。
財津理による訳業も、すごいの一語に尽きると思うが、ただ巻末の「解説にかえて」に訳者が書いてる*1ドゥルーズプラトン(とくにイデア論)への対し方の解釈には、異議がある。
ぼくが読んだところでは、プラトンに対してはドゥルーズは徹頭徹尾両義的で、とくに「イデア」論についてはその潜在的な(?)魅力を深く認めていると思う。もちろん、「ディオニソス的なイデア」ということになるのだが、しかし、ここは重要なところなのだ。
そして、この点がやはり、ヴェーユとの共通点でもあると思う。
財津の解説によれば、ドゥルーズの政治的なスタンスは「アナーキスト」ということらしい。ヴェーユもそう言われている。
とすると、「アナーキストイデア論が好き」ってことか。


まあ、イデアというのは現実の世界(感覚界)には無い存在だから、アナーキズムの理念とは合ってるような気もする。
ただ、ここはまったく微妙なところだ。
問題は、アナーキストが議会政治やもろもろの国家制度に反対する目的は何か、ということである。
ヴェーユにしても、「中間的な存在」とか、「くに」といったものを重視したようである。
要するにぼくが言いたいことは、アナーキストが本当に反対する対象は、不可視の国家(DGの言う国家)であって、現実の諸制度についてどう処するかということは、根本的なことではないのではないか、ということである。
つまり、不可視の国家の出現を阻むものであれば、真のアナーキストは躊躇無く議会制民主主義をも支持するのではないか。
「差異の思想」というのは、そういうものではないのか?


やっぱり何が書きたいのか分からなくなってきたので、今日はこれでやめ。

*1:92年の単行本出版時に載った文章が、文庫版にも掲載されている。