『差異と反復』読書メモ・その2(プラトン)

『差異と反復』の第一章を読んで、ぼくが一番印象深かった(驚かされた)ことは、『ひとり《正義》のみが正しい』というプラトンの正義についての考え方を、ドゥルーズが基本的には支持・継承しているということだった。

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)


ドゥルーズにおいては、プラトンの《イデア》は、「ヘラクレイトス的世界」の哲学を継承して、表象されることのない純粋な差異、「差異の純粋な概念」にかかわるものとしてとらえられている。

イデア》はまだ、世界を表象=再現前化の諸要請に服従させるようなひとつの対象概念ではなく、むしろ、或る野生の現前なのであって、それは、諸事物のうちにある「表象=再現前化されうる」ことのないものに応じてしか、世界のなかに呼び出されえないものなのである。したがって、《イデア》においてはまだ、差異を概念一般の同一性に関係させるという決定が下されてしまったわけではない。《イデア》は差異であるかぎりでの差異の純粋な概念、その本来的な概念に出会うことを諦めてはいないのである。(p170)


この《イデア》(正義)が、議論や対立の場において、ある人が「正しさ」を持つことにより「正しい者」となることの根拠となる。つまり、議論や対立の場における「正しさ」の根拠となる、とされるのである。

根拠づける原理〔イデア〕は、分有されえないものとして存在するのだが、しかしその原理は、分有されうるもの〔正しさ〕を与えるのであり、しかも、それを与える相手は、二番目に所有する者としての分有者であって、この分有者が、根拠というテスト〔試練〕を突破することのできた要求者なのである。(p179〜180)


これは、《正義》によって根拠づけられないような主張は、真に「正しい」ものとは言えない、ということだろう。
プラトンは、要求者(議論に参加する人)が、この「根拠づけ」を得ることができるのは「神話」の力によってだ、と考えた。「根拠づけ」は、議論の場における「反論」によって根拠づけが得られるものではなく、言わば「神話」による選別によってある要求者は「根拠づけ」を勝ちとることになる、とされるのである。
ドゥルーズは、この「神話」の力による「根拠によるテスト」というものの本質を、「問い」ということ、「果たされなければならぬ責務」としての「問題」ということのうちに見出している。「神話」の力によって要求者に謎(問い)が課され、その問いかけに答えようとするという責務を引き受けること、そのなかに身を置くということこそ、《正義》によって根拠づけられることを意味する、ということであろう。


ところでドゥルーズプラトンを批判するのは(つまり、転倒するべきであると考えるのは)、プラトンがこの《正義》(イデア)なるものを同一的なもの、「根拠」として見ようとしたということ、言いかえれば「差異」そのものとしてとらえようとしなかったことである。
だがそれは、《正義》は存在しない、と言うためではない。議論や対立における「正しさ」を外から規定するような《正義》の存在を否定するためではないのである。
ドゥルーズが行おうとしたことは、《正義》がたんなる「正しさ」のレベルに回収されてしまうことを拒む、ということである。それが、「差異」を差異そのものとして提示するということであり、責務としての「問い」のなかに我が身を置き続けるということだ。
絶えず自ら差異を生み出し続けるような差異の運動、自己差異化というものは、ぼくにはそういう「絶えざる根拠への問いの投げかけ」としての、民衆による「民主化」の運動としてしか考えられない。
この意味でこそ、調和(和解)を前提とした対立や矛盾ではなく、差異の純粋な運動としての「論争」だけが重要だとされるのだ。


そしてそれは、「民主的(ポリス的)」な議論が成立する空間としての「公共圏」の「外部」をどうとらえていくか、ということでもある。
ドゥルーズは、上に述べた「問題と問い」ということに関して、次のように書くのである。

問題あるいは問いそのものの本質に「照応している」のは、まさに《存在》である。(中略)こうした関係においては、存在は、《差異》それ自身である。存在は、なるほど非−存在でもあるが、しかし非‐存在は否定的なものの存在ではないのであって、むしろ、問題的なものの存在、問題と問いとの存在なのである。(p183)

そのような(非)‐存在は、差異的=微分的な《エレメント》であり、そこにこそ、多様な肯定としての肯定の発生の原理が見いだされるのである。(p184)


否定的ではないような非‐存在、差異それ自身であるような存在、問題的なものの存在、これらの言葉が意味している者こそ、ドゥルーズが見つめていた存在であり、「果たされなければならぬ責務」としての問いをドゥルーズに投げかけていた存在であるだろう。
そして、その言わば(公共圏の中では)「非−存在」とされた者たちの存在こそが、「公共圏」の内部における議論の「正しさ」の内実を構成する(根拠づける)唯一のものと言ってもよいだろう。
逆に言えば、そうした者たちの存在を「非‐存在」とすることによって成り立っているという、自らの存立の根拠(基盤)を問わない限り、「公共圏」内部でのいかなる議論も空虚であり、そこには内実を伴わぬ「正しさ」しかないのである。