『差異と反復』読書メモ・その1

晦日から『差異と反復』(河出文庫)の上巻を読み始めて、やっと序論と第一章を読み終わったので、とくに印象深かったところを何箇所か引用しながら、ここにメモしておく。

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)


この本は、哲学についての相当専門的な内容になっているので、ぼくとしては自分に関心のある具体的なことに無理やりでもあてはめて考え、当たりを付けていく以外ない。
そのなかでうまく行くものが、果たしてあるかどうかである。
この「具体的なこと」というのは二つあって、ひとつは去年ここに何度か書いたような、生存の感じ方の二つの様式というようなこと、そして特に生(生存)を「強度」においてとらえるということをどう考えるか、みたいなことである(たとえば、これhttp://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071128/p1)
そしてもうひとつは、東アジアの(特に政治的な)近現代史、といっても現在も続いてるようなことだが、それとの関わりでどうかということ。

生の強度・義務

まず、ひとつめについて。
たとえばニーチェについては、こういう風に書かれている。

しかしそればかりでなく、諸事物や諸存在を、力(ピュイサンス)という観点から考察するようなヒエラルキーも存在するのである。その場合、力(ピュイサンス)のもろもろの度を他のものと関連させないで考察することが問題なのではなく、ひとつの存在が、たとえおのれの能力の度がどうであれ、おのれのなしあたうものを最後までやってみることによって、「跳躍する」、すなわちおのれの諸限界を越え出るという場合があるのか否か、ということだけが問題になるのだ。(p112)


「能力の度」とは関係なく、「おのれの諸限界を越え出るという場合があるのか否か」、ということにより構成される生のヒエラルキーがある、という風に読める。
このニーチェに対する読解は、スピノザの「一義的存在」の哲学についての次のような文章につながるものだと考えられる。

(前略)そして、この実体はといえば、それは、その実体を表現する諸様態に対して存在論的に一なるひとつの意味としてふるまい、それらの様態は、個体化のファクターあるいは強度的で本質的な度として、その実体のうちに存在するのである。そのようなわけで、様態は力(ピュイサンス)の度として規定されてよいのであり、また、様態にとって、おのれのありったけの力(ピュイサンス)とおのれの存在とを限界そのもののなかで展開するという「義務」が生じるのである。(中略)実体が、もろもろの属性の本質に即して、それら属性のすべてによって等しく指示されるかぎり、また、実体が、もろもろの様態の力(ピュイサンス)の度に即して、それら様態のすべてによって等しく表現されるかぎり、あらゆるヒエラルキー、あらゆる卓越性は否定されるのだ。一義的存在が中性化されなくなり、そして表現的になり、ひとつの真の肯定的な表現的命題へと生成するのは、まさにスピノザによってである。(p120〜121)


ここで「実体」と言われているのは、スピノザ的な「神」のことであり、「様態」というのは個別の存在者のことではないかと思う。
とすると、力の度として規定された「様態」(ある人の生)は、『おのれのありったけの力(ピュイサンス)とおのれの存在とを限界そのもののなかで展開するという「義務」』を持つ、と言われてるわけである。
これが、ニーチェの言う「跳躍」に当たるようなものであろう。
『あらゆるヒエラルキー、あらゆる卓越性』が否定されるのは、あくまで様態がおのれの「義務」を果たして「実体」を十全に表現する限りにおいてである。
ドゥルーズスピノザに見いだした生の「肯定」や「平等」とは、そういうものだったようだ。
ぼくはそれに文句を言いたいわけではなく、とりあえずそこを確認したいのである。
そして、ここで重要な点は、ここで様態には「義務が生じる」というふうに言われてることである。「義務」という言葉は、ここまでこの本のなかにはあまり出てこなかったと思うが、ここでは使われてる。
義務を生じさせることができるのは、「他者」(他人)以外にはないのではないだろうか?
つまりここで、ドゥルーズスピノザのこの「一義性」の哲学のなかに、「義務」を生じさせるものとしての「他者」の存在が予感されているようにも思えるのだ。
そして、その要素を入れなければ、スピノザの思想を「肯定の哲学」と位置づけることは無理なのではないかとさえ思う。

東アジアの問題

上に触れた「生存の感じ方の二つの様式」ということについては、ドンス・スコトゥスという人と、とくにライプニッツに関するところで詳細な記述があるのだが、ここでは割愛する。


「具体的なこと」の二つめ、東アジアの政治的な近現代史との関係。
これは、なぜそう思えるのかという理由は、こういうことである。
アリストテレスの差異哲学を批判するなかで、著者はこのように書く。

種的差異が示しているのは、まったく相対的な最大でしかなく、ギリシア的な目にとって、それもデュオニュソス的運搬および変身(メタモルフォーゼ)のセンスを失ってしまった中庸の精神のギリシア的な目にとって焦点が合うところでしかないのである。(p98)


つまり、「デュオニュソス的」なセンスを失って以後のギリシアとヨーロッパの思想の伝統のようなものが、この本で批判されてるということが分かる。
そういうものがわれわれの住む地域に本格的に覆いかぶさってきたのは、まさに近現代史、つまり19世紀後半から20世紀前半ということになるだろう。
「同一性」に回収されない「純粋な差異」の思想をどう獲得するかという問題は、われわれの住む地域では、まさにこの時代にもっとも切実なテーマとして浮かび上がったはずである。
そのことを考えさせる例をふたつ。


ぼくは、昔からニーチェの「永遠回帰」というものがよく分からない。この本でも、そこに触れた箇所は、もっとも分かりにくい部分だ。
ただ、それはかぎりなく脱中心化していく差異の運動であるというふうに書かれている。そして、プラトンにおける「純粋な差異」を肯定的に語った部分では、次のように書かれる。

差異は、類に属する二つの規定のあいだに、種的差異(種差)として存在するのではなく、かえって、一方の側に、つまり選別される系統のなかに、そのまま存在するのである。(p173)


これは何を言ってるのかというと、プラトンは、表面上異なるもの同士の「対立」や「矛盾」ということではなく、「純粋な差異」と呼ばれるひとつのものが選別されるような運動だけを重視した、ということである。
たとえば、民主化独立運動の過程で、立場や意見を異にする二つの(複数の)勢力や政党が「対立」しているということが重要なのではない。それが重要だと考える思想、それしか目に入らない「デモクラシー」は、どこか植民地主義的であり、「デュオニュソス的」なセンスを失って以後のギリシア(アテネ?)的なのである。
魯迅にとっても、また現在のわれわれにとっても、「純粋な差異」の運動、つまり「ナショナリズム」とか「民主化」とか「抵抗」とか「独立」とか「革命」とか呼ばれる「一義的な」複数の運動は、そういった「対立」の形態以前のところで、ドゥルーズが言う「媒介されてしまった差異」以前のものとして見いだされなくてはならない。
歴史を貫く、またある仕方で国境をも横切るようなただひとつの、だが同一的では決してありえない運動の渦がある。
つまり、それが脱中心化しつつ反復する差異の運動としての「永遠回帰」の政治的な(またローカルな)姿だとは、考えられないだろうか。
たとえば竹内好がこだわった「掙扎(そうさつ)」という単語を、そこに関連させて考えることはできないだろうか?


もう一例。

表象=再現前化するもの〔代表する者〕は、「すべてのひとが〜を承認する」という言い方をするが、しかし、けっして表象=再現前化〔代表〕されえない或る特異性がつねに存在するのであり、こうした特異性は、まさに「すべてのひと」もしくは普遍的なものではないがゆえに、承認することもしないのである。「すべてのひと」は、それ自身普遍的なものであるがゆえに、普遍的なものを承認するが、しかし特異なもの〔単独なもの〕、すなわち、深い感性的な意識は、普遍的なものの犠牲になるとみなされているにもかかわらず、普遍的なものを承認しないのである。(p151〜152)


ぼくにはこの箇所も、アジアにおける民主主義や近代化の問題、もっと根本的には「純粋な差異」による「同一性」の論理への抵抗というテーマに、深く関わるもののように思えるのだ。


疲れたので、この辺で。
「その2」以降があるかどうかは不明。