服従について

根をもつこと

根をもつこと


『根をもつこと』を読んでいて、気になることのひとつは、ヴェーユが「服従」と「隷従」とをスッパリ分け、対置させているように思えることである。

相手を所有物とみなしている人間にたいする奴隷の献身は、低劣なる行為である。自由なる人間をうながして、その身体と魂とを完全なる善への服従に捧げさせる愛は、隷従的な愛の対極をなすものである。(p364)


ヴェーユは人間が機械の前で奴隷のようになる、古代ローマから現代の大工場での労働につながるような「隷従」を強いられる労働のあり方については非難するが、人間が本当に機械の一部に組み入れられるような労働のあり方、ローマ以前の社会における奴隷労働のようなものは、そのなかに神の秩序への「服従」の姿を見て賞賛するようなのである。
これは、『千のプラトー』でのドゥルーズガタリの考えを思い出させるものだ。
そして「隷従」と「服従」の違いは、前者が権力関係をはらんでいるのに対して、後者にはそれがないこと、というふうに読める。


しかし、この両者を単純に分けることが可能だろうか?
たとえば、犬が飼い主の命令に従うのは、集団(ヒトと犬)の秩序を維持するための行動だから、権力的な要素を持つだろう。しかし、ここに権力以外の要素、無償の愛(宗教的なものではないが)とか、それこそ「注意」(ヴェーユ)のようなものが含まれていないとは、言い切れない気がする。
たしかに人間同士の場合には、これほど明確に「言い切れない」と言いにくいが、やっぱり言い切れないのではないか。
これは逆に言うと、神の秩序へのどんな純粋な「服従」(ヴェーユ)のなかにも「権力」が忍び込んでいる可能性を排除できない、すべきでない。そういうことではないか?