「勝てばいいのか」と批判する人々

府知事選の結果について書くべきかも知れないが、こちらについて書く。


白鵬朝青龍による「決戦」は、想像以上のすごい勝負だった。
大相撲という競技を(商売の意味でなく)復興させた、この二人の異国の青年に敬意を表したい。
ぼくは見ていて、中国の昔の史書とか、戦国時代のドラマや小説に出てくる、新旧の勇士同士の対決といったものを思い浮かべた。
この二人は、実年齢はそんなに違わないと思うが、朝青龍の方に「老い」と見まがうほどの円熟した雰囲気があり、そこからモンゴルの平原で対決する二人の勇者という印象と同時に、円熟の極みに達した信玄と上り坂の若き家康がぶつかった三方ヶ原の戦いのようなものを連想したのである。
まあ、そんなことはともかく。


朝青龍について最近よく言われるのは、「勝てばいい」と思っているのか、という批判の言い草だ。
たしかに強さは認めるが、横綱としての品位や品格に欠けるとか、敗者への思いやりがないとか、もっともらしい批判をよく聞く。
しかし、ぼくが疑問に思うのは、そういう批判をする人たちの品位や品格ということであり、思いやりということである。
朝青龍という一人の若者の振る舞いのことより、そうした批判が蔓延する社会全体の「品位」「品格」や、精神的な部分の方が、よほど重大な問題だと思うからだ。


たとえば、土俵下に突き落とした相手力士に手も貸さぬ「勝者の非情さ」を詰る声は、朝青龍に限らず、現理事長北の湖の現役時代にもよく聞かれた。
ただ、朝青龍に関しては、外国人力士であることや、よく分からぬが本人の性格(極度の負けず嫌いなど)の問題も多少あるだろうと同時に、世相全体がいわゆる「ネオリベ」と呼ばれる風潮にあることと重ねられて、その点がとくに強調され非難されたりする。
非難の方向としては、「品位」「品格」の欠如を強調する伝統主義的・道徳主義的なものと、「弱者へのいたわりのなさ」を強調する心情論的なものとに分けられるとはいえ、いずれも競技者である力士自身の精神的な不完全さ・未熟さを論うという点では同じである。


だが、相撲は勝ち負けを競う競技で、その意味では非情なものである。
それが興行として成立するのは、多くの観客・ファンが、つまり競技者でない人々、傍観者・第三者とも呼べる人たちが、その非情な争いの姿を見ることを好み、消費するからである。
そして、はじめの方で書いたように、たしかにそこにわれわれはある種の深い感動をおぼえているのだ。
ほんとうに非情なのは、相撲を愛好するわれわれ観客・ファン、つまり第三者の側なのである。
競技者は、いわばそこで競うこと、闘うことを強いられ、人々の視線と欲望によって消費される。われわれが、日々力士たちを貪っているとさえ言える。
これは、現在のようなマスコミ全盛の社会においては、なおさらそうであろう。
人々は、土俵をとりまく、またブラウン管の前の、そうした自分たちが有する残虐さから目を背けるために、自らの欲望の犠牲に供している力士(競技者)たちの「品位」「品格」を論い、「いたわりのなさ」を批判するのだ。


ことは相撲や格闘技に限らない。
道徳性や、品性や、優しさや思いやりといったものを要求されるのは、いつも現場で葛藤している人間の側、ときに「非情」に徹して闘わざるをえない人々、そういう生を強いられている人たちの側である。
傍観者、第三者でいられる側は、その「非情」から利益や快楽を得ていながら、ときに自らの疚しさから逃れる目的で、そうした自らが追いつめている人たちの精神性の欠如を非難の標的にするのである。


追いつめられた状況にある人々とは、いわば社会の辺境、底辺、また外部に位置するような人たちである。
この人たちが懸命に這い上がろうとするとき、傍観者や第三者でいられるような特権的な場所へ入り込もうとするとき、これら「外国人」や「女」や「成り上がり者」たち、またときには「新興国」(中国やインドを含む)といった存在は、すでに特権的な圏内にいる(そう自覚している)者たちによって、かならずその「品性」や「非人間性」といったものを非難されることになる。
そういう方向に人々の攻撃性が動員されるように、この社会の「(既得)権益」と呼ばれるものの仕組みは、巧妙に織り上げられているということなのだろう。


ぼくがもっとも言いたいのは、こういうことだ。
現場で格闘しながら生きている人間、そうせざるをえない人たちの品位や精神性といったものを批判したいのなら、傍観者や第三者であることをやめてからでなくてはならない。
それはつまり、この人々をそうした場所に追い込んでいる自分の位置の特権性に気づき、その人たちと同じ位置で生きる人間同士として相手と向き合い、言葉を投げかけていく、ということである。


たとえば相撲の場合、現場の「当事者」であるべき元力士の有名人であっても、傍観者・第三者の位置に同化した発言しかできない人もあるようである。
表面的な当事者性が、かならずしも発言の切実さや強度を保証するとは限らない。
だが、たとえば出自ゆえに苛酷な差別を経験してきたと言われる元大横綱が、朝青龍に向かって「勝てばよい、というものではない」とたしなめるとき、その言葉は、はじめてふかい厳しさと温かみ、そして真実味を帯びるだろう。
われわれがこの社会でいま真に尊重すべきものは、そうした、人間の言葉の真贋を分かつ見えない基準である。