『不穏なるものたちの存在論』

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現代韓国のすぐれた思想家であり実践家である李珍景さんが書いたこの本は、訳者の影本剛さんから献本してもらって、私には難しいところもあったが、たいへん大きな刺激を受けながら読んだ。
以下に書いた文章は、最後にかなり長い批判の部分を含むことになったとはいえ、それだけ多くのことを考えさせる力をもった書物だということを、明かしてもいるのである。そのことを、はじめに断っておきたい。

まず第一章では、書名になっている「不穏性」という概念について語られる。
「不穏なるものたち」は、資本主義社会のシステムや(「自我」や「家族」や「体制」のような)規定の制度のなかで安定して生きている者たちに、不安と「反感的共感」を引き起こす。ここで例としてあげられるのは、大規模な組織力を持たなかったにも関わらず社会全体に「不穏な」効果(影響)をもたらしたという、1970年代の韓国の労働運動のイメージであり、そのあり方に学ぼうとする、ネオリベ化した現在の韓国社会における著者たちの政治的実践である。

現行の力の大きさや明示的な目標ではなく、理解できないゆえに自分が知りえない何かがあると考えざるをえなくさせること、どこにいくのか、どんな行動をするのかを、予測できないし知ることのできない潜在性が、不穏さの強度と関係していると言わねばならないのではないか?(p16)

こうした思想と政治的実践との関わりの深さを見ないでは、この本の真価を見失うことになるだろう。


第二章では、ハイデッガー流の存在論に対抗して、次のような「出会いと別れ」による「複数の存在論」の構想が語られる。

存在へと達するただ一つの道があるのではなく、可能なる無数の道がある。そしてすべてを余すところなく現わすただ一つの道があるのではなく、無数の失敗のなかで、つねに「じゃあもう一度!」と言って、再び始めることのできる無数の断絶と分岐によって満たされた道があるのだ。途切れた道のあいだの、ふたたび踏み出すことで進み始めねばならない、いくつもの不連続があるのだ。わたしたちが考える存在論が〔どこにあるのかと〕存在論の歴史をめぐるなかで、存在の声を聞く哲学者や思想家の重く厳粛な作業よりは、自らの出会う存在者を通して変形される生に、つまり「もう一度」新しい出会いと別れを探しに行くわたしたち自身の軽い足取りの近くにあると信じるのは、このような理由による。存在論が存在と同じくらいわたしたちに近いのはこれゆえだ。( p45)

これだけなら、東浩紀とどう違うのかという人もあるかもしれない。
だが、この存在論が目指すのは、あたかも「無いもの」のようにされながらシステムと「私」の存在とを支えている、「外部」的な存在者たちとの出会いであり、それを通して、私自身が、この社会システムの外へと逃れ出て行くような生き方を見出すことである。
この私を支える「外部」の存在者たちが、「不穏なるものたち」と呼ばれているのであって、したがってこれは著者も言うように、倫理的な(同時に歴史的・政治的な)色彩を強くもつ存在論なのだ。

人間が、誇らしい通念のなかで印したあらゆる境界を消しさり押し入ってくるもの、そのようにして人間を、自分たちが属する取るにたらず些細で卑しい世界へと引きずりこむものは、全て「不穏なる」ものなのだ。卑しく些細なものたちから始める存在論、小さく卑しいものに「依拠」して思惟する存在論、わたしたちはそれを「不穏なるものたちの存在論」と呼ぶだろう。(p61)


こうして、以下の章では、「不穏なるものたち」のさまざまな様態に光が当てられ、論が展開されていく。
まず第三章では、「障害者」の存在が、全ての存在者が互いを支え合うことによって存在しているという、この世界の根本的な現実性をあらわにするものとして語られ、そうした現実性を人々から覆い隠し無感覚にしてしまうものとして、資本主義社会、とりわけ現在のネオリベ社会の本質が鋭く分析される。

このような点において、労働者は、障害者と同じくらい障害者なのだ。他人たちの存在に対する敏感さ、自分を支える他人たちに対する鋭敏な感覚を持っている。(中略)正当な要求をもって自分を現す時ごとに、世の中との不和を現す者であり、不和を通して別の者の障害を現す者なのだ。(p72)

破産した企業を再生させるために数兆ウォンにいたる「公的資金」を投与することにさえも、この巨大な実質的迷惑に対してさえも、迷惑をかけていると感じないという資本家たちの驚くべき無感覚は、これと無関係ではないだろう。逆にいえば、潰れた企業につぎ込むとてつもないお金については「迷惑」と考えないにもかかわらず、生活保護のような自分たちの生活を営むための小さなお金については申し訳なさを禁じえず迷惑だと思う人民たちの感覚、それゆえ「基本所得ベーシック・インカム〕」や失業手当のような生活の最小条件を保障する所得を要求することさえも、行き過ぎた要求であると思って躊躇したり難詰するような過敏さもまた、これと無関係ではないだろう。(p73)


競争と私的所有にもとづく資本主義社会のイデロギー性を鋭く批判したこの第三章に劣らず、私が強い印象を受けたのは、バクテリアを題材にして、「共生」の現実的(リアル)なイメージを追求した第4章である。
ここでは、細胞中に取りこまれて生きるミトコンドリアのような存在を例にして、食うか食われるかのような敵対的関係が「失敗」によって共生関係に帰着するという事象が、自然界では決して珍しいことではなく、むしろそれこそが生命体の通常のあり方ではないのかと述べられる。
この、敵対的関係から帰着する共生の現実性(リアルさ)という発想は、この章で参照されているスピノザばかりでなく、カントの「非社交的社交性」も思い出させる。
だが、この章の白眉と言えるのは、その後半の「免疫」についての議論に発展していく部分だろう。そこでは、個体の免疫能力とは(ふつう考えられているのとは逆に)、外部者が身体の内部に存在することを受け入れる能力のことである、と定義される。そうした受容能力が低下した時に、アレルギー(外来者への排他的攻撃性)が発動されてしまう、と考えるわけだ。

動物の免疫体系がひときわ複雑で強固なのは、外部者との脆弱な共生能力に、異質なものを受容する能力の脆弱さに基づくのだ。(中略)外部者たちに対するこのような攻撃的防御態勢は、死を知らぬバクテリアや、自立的生存能力のおかげで死ぬか殺すかの過程から距離をおける植物と違って、有性生殖がもたらす必然的な死の運命と、非自立的能力ゆえに避けて通れない、死ぬか殺すかの敵対的争いの運命のなかで常に対面せねばならなった死の恐怖によって惹起されたのではないか。(p131)

ここでは、現代の社会を特徴づける、マッチョ的な心理(「強さ」の思想)が、冷徹に分析され批判されていると言える。それは、私を感染させ、揺るがしかねない「不穏」な他者に対する攻撃的防御性と表裏をなしている。
私たちの生と社会が、異質なもの、「不穏」に思える存在、自分を不安定さに巻きこむと直観される存在や人々に対して、排他的で予防的な攻撃性を差し向けるのは、私たちの「受容能力」の減退の故なのである。
では、この減退をもたらしているものは何か?そこに、「不穏なものたち」との共生の現実性を覆い隠すことで成り立っている、資本主義社会(競争社会)の仕組みが浮かび上がってくる。
またこのことは、私たちが「不穏さ」を感じる他者を攻撃し排除しようとするとき、その他者の存在の中に自分の枠組みが揺るがされて、境界の外へと巻き込まれていきそうな不安を感じているのだという事実を、暗示してもいるだろう。


サイボーグをテーマとして、押井守の『攻殻機動隊』からエンゲルスへと展開する第五章は、とりわけスリリングな筆致で書かれているが、現代思想の中でもドゥルーズに依拠するところが多いと思われる本書の中で、「幽霊」というデリダ的なモチーフが初めて登場して来る点でも、興味深い章である。
ここで著者は、「存在する」という動詞を可能にするのは、効果であると断言する。つまり、存在するものが効果を持つのではなく、効果を持つことが「存在する」ことを可能にする、というわけだ。神や幽霊を信じる人にとって、それらが効果を持つのであれば、その人たちにとっては神や幽霊は「存在する」。
その立論は、きわめて政治的かつ歴史的でもある。

わたしは幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存していることを確信する。たとえば一九八〇年代初め、わたしが入学した大学には少なからぬ幽霊が存在していた。一九七〇年の清渓川で「勤労基準法を守れ!」と叫びながら焼身自殺をした全秦一の幽霊、一九八〇年の光州で死んでいった二〇〇〇人余りの市民たちの幽霊が。その幽霊たちによってわたしは、またわたしの友人たちは、思いもよらぬ生へと巻き込まれていった。素朴な青年の夢があった場所には血と涙が流れる陰鬱で重い生が入り込み、ペンを持たねばならない手にはいつのまにか石礫が、あるいは火炎瓶が掴まれていた。幽霊たちでなかったら、そこに魅惑されなければ、一体だれがそんなことをしえただろうか?わたしたちが叫ぶとき、実際はかれらが叫んでおり、わたしたちが駆けるとき、かれらがわたしたちとともに駆けていた。誰がこの幽霊たちの存在を否定できるだろうか?それがいなかったら、かの多くの人びとが、ときには直接幽霊の世界の中へと飛び込むことまでをして、なぜそのような生を生きるようになったのか理解できない。だからわたしは幽霊が存在しないという言葉を信じない。余りにも強い存在感を持って現存していることを信じる。(p141)

つまり幽霊とは、私を「思いもよらぬ生へと」(時には死にさえも)巻き込んでいく、あの「不穏なるものたち」の一つの別名なのだ。
この幽霊のモチーフは、後の章でも繰り返し現われてくる。


続く第六章は、「手段としての生」を体現する実験動物たちについて考えることを通して、人間中心主義と目的論的思考を徹底的に批判していく、本書の中でも最も衝撃的なパートと言えると思う。
ここで著者は、ヒューマニズム的な立場から「手段としての生」を否定し遠ざけるのではなく、逆に、そのような生のあり方に重要な意味を見出そうとするのだ。もちろん、そこには(著者も自覚しているように)危うさもある。
これは、本書でしばしば言及されるドゥルーズブランショの思想も、ヨーロッパの文脈の中で批判されてきた点だと思うが、人間中心の目的論的な思考を批判する著者の思想は、しばしば全体主義ファシズムとの区別を定めがたい相貌を見せるのだ。
こうした点については、最後にもう一度考えたい。
とはいえ、われわれがそこに依拠することで日々の生活を送っていながら、その存在を徹底的に忘却し、むしろ消去しようとしてさえいる、これら「手段としての生(存在)」を強いられたものたちに向ける著者の眼差しの、思想的・倫理的な強さには、圧倒されるほかない。
著者はここで、古代ギリシャの「民主制社会」を不可視の存在として支えた、「手段としての存在者」たちの領域、つまり「オイコス」(奴隷や女たちの棲家)について語り、そうした、この社会と私たちの日常とを支えている不可視の「外部」のものたち(「不穏なるものたち」)として、実験動物や、あるいは高度情報社会・IT社会における「機械」の存在を捉える。

だとすれば「機械奴隷」や「生物奴隷」たちの反乱、それらの解放について考えることができず、主張することができないのは、それらがわたしたちの時代の真なるオイコスに属しているからだと言わねばならないのではないか?慣れ親しんだことだけを考え、慣れ親しんだものだけを見るわたしたちの無感覚が、思惟できない地帯、その思惟の無能力地帯に属しているからだと言わねばならないのではないか?複製物たちの超過的抵抗が、手段としての生を付与された存在者たちが、巨大な災難の形態で再帰してきている現在、それを見ることができず、思惟することができないのなら、これもやはり余りに手遅れだと言わねばならないだろう。(p207)

ここには、システムの論理の中で使い捨てられ、否定され、忘れられていくものたちへの共感的な眼差しがあり、言い換えれば、根源的・日常的な次元における反植民地主義的な生の態度がある、と言うべきだろう。
この本の語る思想が、真に私たちを撃つのは、この地点であると思える。


第七章で語られるのは、「不穏なるものたち」のもう一つの重要な性格、つまり、私たちを「魅惑する」ということに関してである。この章の表題は、物によって魅惑される者、すなわち「フェティシスト」だ。
ここでは、対象を所有し、支配し、意のままに弄ぶことを楽しむ、能動的な「男性のフェティシズム」に、時には性欲から離れてまで、事物の触感性に魅惑される、受動的な「女性のフェティシズム」が対置される。著者はそこに、対象を所有したり支配・操作することとは無縁な、「物に対する非性的な愛」を見出し、さらに生物と非生物の境界さえ越え出て行く「一般化されたフェティシズム」へのベクトルを見るのである。
ここでも、「目的としての生」(主人・市民の生)と「手段としての生」(奴隷の生)との価値の転倒が目論まれているのは確かだろう。他者を支配することを目指すのではなく、むしろ手段とされ支配される側の存在の生、事物としての生の肯定のなかに、システムの束縛を越えていく連帯の可能性を、著者は見出そうとしているようだ。


第八章で展開されるのは、階級(プロレタリア)と大衆(プレカリアート)をめぐる政治的な思弁である(この「大衆」という漢字語の政治的な起源が、仏教史の中にあることを、ここで書きくわえておきたい)。
この章で、再びあの「幽霊」が姿を現わしてくるのは、それが「宣言」の冒頭で「幽霊」の再帰と徘徊を語ったマルクス主義の歴史を参照したものだから、というだけの理由によるのではあるまい。
幽霊は、時間や所属に縛られず、生死や性別を含めたさまざまな境界を越えて行き来する『規定不可能な』(p291)存在の象徴だといえる。
著者の考える流動的・離脱的な「大衆」(プレカリアート)のイメージも、そこにつながるのである。これは当然ながら、マルクス主義が蔑んできたルンペン・プロレタリアート(無産者大衆)の肯定ということを意味するだろう。

最初の大々的な無産者大衆の創出と、資本主義的蓄積による周期的な失業者大衆の創出、この二つの契機の間に労働者がいる。資本に包摂された存在者として、可変資本としての労働者がいる。資本によって割り当てられた地位と役割に帰属した者として労働者階級がいる。しかし厳密に言うなら、そのような無産者大衆は、資本が存在するどこであれ常に既にいると言わねばならない。なぜなら資本による雇用が、雇用の追加が、繰り返し行われるということは、無産者大衆なしには不可能だからだ。すなわち無産者大衆は、資本が存在するための恒常的条件であり共時的条件である。このような理由によって、わたしたちは皆この離脱の線を描く大衆として資本主義と対面し、そのような無産大衆として「生まれる」と言わねばならない。(p275)

このようにして、固定された「階級」ではなく離脱し常に流動する「無産者大衆」こそが、資本制社会の真の現実性であることになる。また「大衆」こそが、階級の内実(質料)であり、すべての人々を階級から解放する永久的な革命の主体であると、著者は述べる。
いまだ「非階級」ではないが、非階級に向って所属から離脱していく過程にある存在として、プレカリアートは、階級社会を不安定にさせ、階級と境界の無い世界へと人々を巻き込んでいく潜在力をもった階級であり、つまりは「不穏なる」階級だとされる。


最後に、問題提起として、私なりの批判を書いておきたい。
上に書いたような、離脱と流動によって性格づけられる、著者の「大衆」概念に、私自身はリアリティをあまり感じることができなかった。
日本の場合、階級意識の希薄化や喪失と、それによる大衆消費社会の成立は、何よりもまず右傾化を準備した。これは、中曽根政権の頃から明確になった事態だが、振り返ればそもそも戦後日本における「階級」なるものが、右翼的・封建的な国民意識とどれほど離れたものであったかということも疑わしい。ともあれ、日本では階級の消滅と大衆(後にプレカリアートという形態をとる)の台頭は、右傾化の揺籃の役目を果たしたのである。
つまり、日本における「大衆」は、天皇ファシズムと分かちがたい関係にあるのではないかというのが、私の疑念だ。
一般的に言って、プレカリアートの出現によって、普遍的な「階級からの解放」が実現するためには、ただ階級が解体するだけではなく、それよりも一段深いところにある層が、同時に解体されなくてはならない。日本の場合、その層とは、天皇ファシズムにつながるものであると考えるしかないが、そうした、流動化した大衆を最悪の支配へと誘導する深層の罠は、どの国の社会にも存在しており、近現代のシステムはその反動的な機能を(ファシズム化や全体主義化という形で)取りこむことによって維持されてきたと言えるのではないだろうか?
著者の批判の射程は、その層にまでは届いていないような気がするのである。
このことを、先に触れた、反目的論的思想のファシズム全体主義との近似という事柄につなげて考えてみたい。
先に述べたように、この傾向は、人間中心主義的な近代主義の政治原理を否定するドゥルーズらの思想に対する批判として、ヨーロッパの文脈でも指摘されてきたものだが、東アジアの政治的・文化的文脈においては、それはある種の仏教的な思想や、アニミズム道教の世界観と結びついた伝統的な政治権力の形態(古来からの天皇制は、その代表的な一つであろう)、また近代においては西田哲学・京都学派などが体現する「無」や(生命的な)「場」の思想、そしてその具現化としての天皇ファシズムとそこからの派生、等々の形をとって、幅広い現われ方を示し、人々の行動や感情を深いところで規定しているものだと思われる。
この地域では(日本においては特にそうなのだが)、われわれが近代的な思考の呪縛を自ら解き放ったと思った瞬間に、その深層の磁力が私たちを捉え、そうすることで、いわば最悪の近代の中へと人々を封じ込めてしまうのだ。
著者の思想は、そうした反(前)近代的(=近代的)な権力性とのきわどい葛藤の中にあり、その磁力を十分に対象化できていないのではないかと思う。
たとえば、著者はしばしば、存在者の巨大な連鎖ということを言い、それを「海」の形象によって語るのだが、これが全ての存在者を、とりわけ卑小なものと見なされる存在者を包み込むことでこそ成立する、天皇制や仏教的生命主義(この両者は、近代日本の帝国主義ファシズムの中では共犯的だったと思うが)の磁力を、十分に逃れているといえるのかどうか、私には定かでないのである。
きっと、そうした深層の磁力との闘いの方途は、境界の内にあっても外にあっても、私たちすべてが、連帯の試みとともに掘り下げていくしかないものなのであろう。