『経験論と主体性』メモ・その3

一般的な利害的関心というものは発明されるものである。(p208)


忘れた頃に掲載される連載メモ。
今回で最後です。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080418/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080424/p1

能動化された精神

ドゥルーズによると、ヒュームは主体を「能動化された精神」という風に考えたそうである。
こういうふうに書いてある。

わたしたちが最初に明らかにしなければならないことは、主体とは精神のなかでの諸原理の結果=効果であり、能動化された精神としての精神以外の何ものでもないということである。(p179)

(前略)主体は諸原理によって能動化された精神であり、この能動化という概念はそうした二者択一を越えている。諸原理がおのれの結果=効果を精神の厚みのなかにたたき込むにつれて、この結果=効果そのものである主体は、ますます能動的なものへと生成し、その受動性を弱めてゆく。主体は、はじめは受動的であったのだが、しまいには能動的になる。このことからわたしたちは、主体性とはまさにひとつのプロセスであるという考えを、しかもこうしたプロセスのさまざまな契機を調べあげなければならないという考えを確信するにいたるのだ。(p180)


「精神」というのは、「想像」とも「所与」とも言われ、人間の心がもともとある状態のことを言ってるらしい。この状態のままでは、人間の精神は、なにものでもないというふうに、ヒュームは考えてるらしいのである。
そうしたものである「精神」に「諸原理」の力が、いわば外から「強制」として加わることで、はじめて「精神」は「主体」へと生成していく。
しかし、主体へと、つまり能動的なものへと生成していくのは、他ならぬ「精神」である。「強制されたもの」であっても、いやそうしたものであるからこそ、この主体性は「精神」という所与に根ざしているともいえる。
つまり、精神にとっては、この過程はたんに「強制」を被ることであるのではなく、むしろ能動的なのである。

すなわち、主体とは、能動化された精神である。だが、その能動化は、それを生産する諸原理から見れば精神の受動性としてとらえられるだろうし、その能動化をこうむる精神から見れば能動性としてとらえられるだろう。
 それゆえ主体は、諸原理が精神のなかに残すのと同数の刻印に分解される。主体は、もろもろの反省的印象に、すなわち諸原理によって残された諸印象に分解されるのである。だがそれにもかかわらず、諸原理の総体によって変形されることになる精神から見れば、主体自身は不可分であり、分解不可能であり、能動的であり、そして包括的である。(p192〜193)


「能動化」(主体化)が、内(精神)から見るのと、外(諸原理)から見るのとでは、まったく違って見えるということ。この辺は、この本をドゥルーズの著作のなかでも特に好きだと言っていた柄谷行人への影響を感じさせる箇所だ。
ここからドゥルーズが強調していくのは、次のようなヒューム思想の核心部である。

連合と情念

ここで「諸原理」と呼ばれているものには二種類ある。認識の原理である「連合諸原理」と、「事情」の原理と呼ばれる「情念の諸原理」である。
この二通りの原理が、精神を能動化する「強制」として働くのだ、というわけである。
「事情」ということは分かりにくいが、それは人間の認識(知性)の根底にある情念や関心に関わるものであり、ドゥルーズは、ヒュームの思想においてそれこそが「一個の主体を特異化する」ものである、ということを強調する。

したがってわたしたちは、主体が精神のなかで構成されるためには、情念の諸原理が連合諸原理に接合される必要がある、ということがわかる。(p163〜4)

一切は、あたかも連合諸原理が主体にその必要な形式を与えるかのように生起し、情念の諸原理が主体にその特異な内容を与えるのである。(p164〜165)


ところでドゥルーズが語るのは、これら二種の原理のうち、主体化の過程においては、「情念の諸原理」こそが第一の原理である、ということだ。

言いかえれば、連合は主体に可能的な構造を与え、ひとり情念のみが主体に、存在、現実存在[実存]を与えるのである。(p194)


ヒュームの思想はまったく実践的であって、個々人の情念(関心、欲望)から切り離された、客観的で中立的な認識、知性(理性)などというものを、ヒュームはひとまずは認めないのだ。
ヒュームにとって連合は情念に従属するものであり、認識とはあくまで、現実の社会を生きる実践的主体の功利的関心を充たすための手段以外のものではありえない。

関係は表象=再現前化の対象ではなく、活動の手段なのである。(中略)告発され批判されている当のものは、主体は認識する主体[認識主観]でありうるという考えである。連合説は、功利主義のためにあるのだ。(p194)

一般的な利害的関心

さて、面白いのは、この先である。
ドゥルーズが注目するのは、(ヒュームが語る)「情念の諸原理」の効果によって形成される人間的自然(精神)の特異な性格である。われわれの精神はそこで、情念の対象についての、(個人的なだけでなく)「一般的な見方」をも形成するようになる、というのだ。

それゆえ、情念の諸原理の影響下にある精神の自然的構成は、おのれの現象を追求する感情の運動だけを含んでいるのではなく、諸事情および諸関係の全体が想定され認識された場合の、そうした全体に応答する精神の反応をも含んでいるのである。言い換えるならば、わたしたちの傾向性は、その対象に対して一般的な見方を形成するのであって、たんに個人的な縁故とか現在の快楽の誘惑によって導かれるだけではないのだ。そのときにこそ、わたしたちは、他に還元しえない空想の基本要素を、認識におけるのと同様に情念においても、しかし認識とは別の仕方で、再び見出すのである。(p207)


ドゥルーズによれば、情念が一般的な見方を形成するというようなことが可能になるのは、情念が「想像」(精神)のなかで反射するからである。
先にも述べたように、所与である精神は、それ自体ではなにものでもない。それは現実性をまったく欠いた無力なものだが、その特徴は「空想」ということである。精神の特質である、この空想のなかで(情念自体が)反射(リフレクション)することにより、情念(利害的関心)は一般的関心となることが可能になる。

「個人的な縁故が普遍的な見方や考察に対して優勢であるようにと、賢明にも自然によって定められている。さもないと、わたしたちの感情や行動は、一定の適切な対象の欠如のために消えてなくなるだろう。・・・・しかしここでもやはり、すべての感覚機能におけるのと同様に、わたしたちは、そうした不平等をレフレクシオン[反射、反省]によって矯正することができ、とりわけ一般的な功利性にもとづく、悪徳と美徳との、一般的な標準を保持することができるのである。」(ヒューム著『道徳原理研究』より。本書p208)

一般的な利害的関心というものは発明されるものである。このことは、想像のなかでの個人的な利害的関心の反響であり、おのれの偏りを超出する情念の運動である。一般的な利害的関心は、想像、人為、あるいは空想によってしか存在しないのだが、それでもなおこの利害的関心は、人類愛と同じく、文化と同じく、精神の自然的構成に含まれる。(p208)


すなわち、「一般的な関心」とは、われわれの情念(関心)それ自身の反省、反響の効果に他ならないのである。
こうした議論を読むと、結局のところ、ヒュームやドゥルーズの情念についての議論においては、「利害的関心」ということ、つまり功利性という概念の海の中に、「正義」の問題が呑み込まれて消えてしまってるかのような印象を受けるのも事実だ。
だが、ここからぼくが読み取るのは、もっと単純なアイデアである。
それは、われわれが情念の利己性を乗り越える契機は、われわれが情念を持つ(持ちうる)ような存在(精神)であるという、そのこと自体のなかにあり、そこ以外の場所にはないということ、これである。
情念それ自身による反省(反響)だけが、われわれに情念を超え出る道筋を、かすかに開くのだ。