民主化と差別

きのうのエントリーへのブックマークに、考えさせられるコメントがあったので、少し自分の考えを書いてみる。


Waferさんのコメント。

コメントしたかったけど閉じられていた。日本政府の欺瞞についてどうにかしたいという点では同意なんだけど、人種差別の解消=民主化というのには違和感。民主化という言葉の定義を間違えてないだろうか。


コメント欄の件は、すみません。


人種差別と民主化ということについてだが、ぼくの考えは以下のようなことである。
ぼくが考える意味での民主化というのは、「ここまで制度の改革が進みました」という段階を示す言葉ではなくて、政治の各局面において、民衆(有権者、居住者)がどれだけ政治を動かし、社会を変えていくことの主役になりえているかという、その都度の程度(度合い)のことを言っているのである。
その度合いが、韓国や台湾におけるのと比べると、日本の場合には低いということを問題にしている。


人種差別に関して言えば、昨日のエントリーでは日本の政府や行政に特徴的な差別のあり方のようなものをとりあえず問題にした。
それは、自分たちが過去に他の国民・民族や集団などに対して行ってきた行為を不問に付したうえで、「少数民族への文化的保護」といった一般的なルールの遵守を強調するという、政府の欺瞞的な姿勢にあらわれていると考えたわけである。
これは、「過去のことを率直に見直し反省したりしていると、現在得ている権益を失う」という意識を背景にしているとされるのだが、そうした「本音」と考えられているもの(いわゆる財源論など)は実は多くの人を納得させるための「口実」であって、実際に権力を持つ人たちが恐れているのは、そうした抜本的な「見直しや反省」によって社会を作り変えていくことが、一般の人々(民衆)にとって可能であるという事実が露見してしまうことだろう。
民衆が、「これ以上根本的には社会を変えられない」と思わされている枠組みの人為性に気づき、自分たち自身が政治や改革の主役になりうるのだということに深いレベルで気づくということが、権力を握っている人たちにとっては、何より困ることなのである。


付言すれば、自分たちが得ている権益(現在ではこれが、生活の安定という風なタームで語られたりする)を失わないために、自分たちの社会の成り立ちや歴史を直視することを避けようとすることは、日本の右派の特徴でもあって、そうしたスタンスはたとえば、産経新聞などが台湾の民進党の独立志向的なスタンスを「日本の国益」に合致する範囲でしか肯定できないという欺瞞性によく示されている。
日本のいわゆる「ナショナリズム」なるものは、決してこの国家の固有な欺瞞の枠組みを越えられない。
つまり、歴史の直視による社会の根底的な変革を決して提示できないという一点を見れば、日本の右派・右翼が、権力を現に握っている人たちと同じ枠組みのなかに居る以外ないということ、それが決して民衆の側に立った政治運動にはなりえないという事実は明らかなのである。


だが、こうした日本の現在の国と社会のあり方とは別の次元における「差別」というものが存在するではないか。
そうした普遍的ともいえる「差別」に対しては、民主化の力は関わりえないのではないか、という疑問が生じるだろう。
だが、ある社会の固有で具体的なあり方と無縁な「差別」などというものが、本当に存在するだろうか?
ぼくは、どのような差別であっても、それをなくそうとする方向での努力は必要であるし、そうした努力と、ぼくら民衆自身が社会の変革の主役になるという意味での「民主化」という運動とは無縁でありえないと考えるのである。


差別は人間の本質のようなもので、差別は決してなくならないと言われる。
それは、差別をなくしていくことの困難さを忘れないための警句のようなものとしては、意味のある表現である。
だが、ここで言う人間の本質とは、つまるところ社会によって作り出されるものであり、そして抽象的な「社会」というものは存在しない。つまり、それはいつでも、われわれのすぐ目の前に、現実に手に触れるものとしてのみ存在しているのである。
だから、差別をなくしていく方向への努力というのは、つねに誰にとっても可能なはずである。
その単純な事実を信じることこそが、民主化ということの本質をなす。


「差別はなくなるものではない」という自覚のもとに普段の努力を続けるということと、「差別は決してなくならない」ということを、行動しない、思考しないためのドグマ(口実)のようにして生きていくこととは、当たり前だがまったく逆のことだ。
後者の場合、その言葉(ドグマ)は、その人(民衆)自身が考えた思想ではなく、権力を握り続けようとする力によって作り出され、その人の心に刷り込まれたものだと言えよう。
なぜなら差別とは、人と人を不当に区別するということであり、目の前にいる他人の存在と同時に、それを差別する自分自身の存在をも、権力によって要請されるままの価値しかもたないものと思いなすということである。人が自分自身によって考えるということを、ほんとうに行っているならば、そのような思想と態度のあり方に、自ら怒りや憤りを発しない道理はないからだ。
差別を容認しているという以上は、そこには「自分以外の力」による思想のおしきせが、必ず存在しているはずなのである。
そういうおしきせを打ち払い、なくなりそうもない差別に対して、だからこそそれをなくそうとする永久的な(社会の変革への)努力の意義を信じるところにこそ、「民主化」の魂は宿るというべきなのである。