生の二つの感じ方とその混同

先日書いたことについて、簡単にまとめてみる。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071126/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071126/p2


ぼくは、自然環境であれ、人工的な環境であれ、置かれている条件に抵抗して生きていると感じられる生物や人間の姿に、「力」とか「美」を感じるようである。ここから考えられることは、生(生存)というものはそれが置かれている周囲の環境や条件(自分の肉体を含む)との関係から切り離しては考えられないものではないか、ということだ。


ところで生について、とくに自分の生存については、二通りの感受の仕方が考えられる。
そのひとつは、人は生れてくるときに、すでに存在している「世界」という場のなかに生れ落ちるのではなく、周囲の環境や条件(自分の身体を含む)と一緒に、まるごと生れてくるのだ、という感じ方である。いわば、私にとっての世界は、私が生れることによって、そのことと同時に存在することになる。
ぼくが感じる「力」とか「美」といった感覚は、ぼくの生に対するそうした感じ方のレベルに関係していると思われるのである。
これは、近代以降はあまり言われなくなったが、それ以前にはわりあい身近な生についての捉え方だったのではないだろうか。一口にいうと、生を個別性においてではなく、その(単独性のなかの)様態においてとらえるという観点である。
大事なことは、この感じ方において感受された生の世界では、私と他の人の存在とは、またもっと一般的に、ある生存と他の生存とは、比較不可能であるということだ。
なぜなら、それぞれの生存は、その生存において(生誕によって)はじめて存在することになったそれぞれ固有の「世界」を、その土台としている。つまり、それぞれの生存は、それぞれに固有の土台(「世界」)しか持たないのであり、比較が可能になるための共通の基盤としての世界は、ここでは存在しないはずだからである。
そのかわり私の生の過程において、ある時点と他の時点でその様態に大きな差が見出された場合、そこで(その時点における)生存の価値に疑問が呈されるという可能性がある。


付言すると、このような生の感じ方だと、自分が生存している間の事柄に関心が限定され、自分の死後の世界(未来)への関心はひどく稀薄になってしまうと思われるかもしれないが、そうとも言えないのではないか。
というのは、この感じ方を突き詰めると「私が死んだ後にも継続するであろうこの世界と、私の生存とは不可分だ」という強い意識が生じると考えられるからである。つまり、このような生への感じ方は、逆説的にも、個体(私)の生の限界を越えて、世界の行く末に対する強い関心を私に抱かせることに至るかもしれない、と考えられるのである。
言い換えれば、ここでは私の生存と世界の存在とは、まったく必然的なつながりを持つと感じられているはずだ。


一方、生に対する感受の仕方には、もうひとつある。
それは、この世界という客観的な土台のうえに、私という生存があるとき(生誕のとき)投げ込まれ、死ぬまで生き続ける、ということだ。もちろんこの感受の仕方にも、強力なリアリティーがある。とくに近代以後、通常意識される生存のリアリティーというのは、こちらの方であろう。
そこでは、ある人(たとえば私)の生は、そのときどきの様態によって区別されるということはない。誕生から死まで、ある人の生は、つねに同じ価値を持つと考えられる。
だがここでは、世界という共通の土台の上に全ての生存者が乗っているわけだから、それら(個々の生存者、生存)を比較考量することは可能である。つまり、ある人Aの生存と別の人Bの生存の間に、価値の違いがあるという発想が生れる可能性がある。
そして言うまでもなく、ここでは私の生と、この世界との関わりは、偶然的なものであることを免れない。家族(血のつながり)や共同体による世代の継承、また宗教や科学信仰のような共同的な幻想が、このよるべない偶然性の感じ、この世界と私の生存との決定的な隔たりによる孤独の苦痛を糊塗すると言えるかもしれない。


ところで、ぼくはしばしば、自分が感受する生の「力」や「美」というものを、この比較可能な次元に結びつけてとらえてしまうという、混同をおかすようである。
つまり、「力」や「美」が感じられる存在者(他人)の生存には高い生の価値があるとみなし、それを感じられない存在者(他人、自分)の生存には低い価値しかないというふうに思ってしまいかねないときがあるのである。
価値というものは比較可能性を前提にしているが、「力」や「美」を感じるような生への感受の仕方においては、個別の生存同士の比較というものは成立しようがないはずだ。
「力」や「美」によって感受されているものは、生の様態に関することであるわけだが、それは個体の比較可能な存在の次元に帰属するものではないはずだからだ。
だから、自分と他の存在者の生存を、あるいは他の存在者同士の生存を、(様態に関わる意味での)価値の優劣によってとらえることは誤りである。


しかし、ぼくはしばしばこの誤り(混同)をおかす。
比較不可能であるはずの(単独的な)生の経験において得られた印象や感動を、比較可能な(存在者の個別性という)レベルに投影してとらえてしまうのである。
この混同は、強力な魅力を持っているようである。
まるでこの混同なしには、生きる力(欲望)を得ることができないかのようなのである。
これは分かりやすく言うと、「転移」ということではないかと思う。
一般化して言えば、そのあらわれとして、例えば我が子への愛情ということをあげられるかもしれない。そこで感じられているのは、本来はなにか別のことであるはずだが、人はそれを「血のつながり」というような個別的なレベルの感情と錯覚することによって、(それがなければ個別的な生存と世界とのつながりの偶然性と、個別的な生存の枠のゆえに稀薄であるはずの)「自分が死んだ後のこの世界」への関心を想像的につないでいくこともあるのである。
この混同は、まちがいなく錯覚なのだが、それなしには人間の社会が成り立ちがたいような錯覚であると思える。だがそれは、多くの憎悪や誤解や葛藤を、人間の世界に生み出し続ける原因でもあるだろう。