『実存から実存者へ』(読了)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)


西谷修による「訳者あとがき」でのまとめが、たいへんよく整理されたものなので、それにも助けてもらいながら、引っかかってるところや印象深かった箇所を読み直してみる。

怠惰と労苦


先にも書いたが、「実存との関係と瞬間」という章の、「怠惰」についての記述が、やはりたいへん面白い。
ただ、少し考え直したい点がある。
ここでレヴィナスは、「怠惰」や「気だるさ」、それに「疲労」といったものを、実存の重荷を引き受けることへの拒絶、「後ずさり」としてとらえる。

疲労や怠惰の現実性をなしているのは、むしろひとえにこの拒絶なのである。(p044)』


『怠惰が怠惰であるのは、この実存の引き受けに関してである。怠け者が行為の労苦を惜しむとしても、その労苦は何らかの苦痛という心理的内容ではなく、そこにあるのは引き受けること、所有すること、かかずらうことの拒否なのだ。(p053〜054)』


ボードレールの詩句にあるように、レヴィナスは「怠惰」を、根本的な(資本主義的ではない意味での)「労苦」としての実存の引き受けを厭うこと、としてとらえているのである。
「怠惰」「疲労」「気だるさ」といった現象において、人は日常の労働や生活の底にある、またそれらによって隠蔽されている、この世界に存在していることの重荷、「責務」を直観している。労働や日常生活のなかでは隠蔽されがちな人間の生存の本質に対する鋭敏さが、ボードレール的な「怠惰」や「気だるさ」という現象の底にあるものだ、とみるわけである。
後年のレヴィナスの議論から類推すれば、ここで言われている「責務」というのは、倫理的な責務のことを意味すると考えられ、そうすると、ここでは「怠惰」は、人を倫理的な「意味」のある生に差し向ける契機になりうるもの、として考えられていることになる。
その意味で、レヴィナスは、「怠惰」に積極的な意味(契機としての)を認めている、ということになる。


だが、この本における「責務」という言葉、存在の重みとか、「労苦」といった言葉を、『存在の彼方へ』と同じに考えることは無理があるように思う。
ここで言われているのは、むしろ、私が存在すること自体の重荷に対する直感であり、その拒絶としての「怠惰」や「気だるさ」、ということだろう。
それらは、実存を、この世界の現実(生存)に関わりあうことを「無力に」拒絶する。そこには、実存についての、この世界を生きることについての、何らかの鋭い洞察・感覚がある。
だが、それはいわば、まだ主観的なもの・私的なものにとどまっている。つまり、依然として、それは単独の生と、存在の呪縛のうちに囚われているのである。

『とはいえ、怠惰があらわにする存在の悲劇はそのためにますます深くなるばかりだ。(中略)怠惰はおそらく、単独の主体には未来も無垢の瞬間も不可能だということを告げている。(p055)』


労働と同様に、怠惰もやはりそれ自体では、つまり単独な主体に関わる現象である限りは、存在の呪縛(労苦)から抜け出すことにはつながらない。ここで、他人の存在の必要性が浮かび上がることになる。他人なき生存に、希望(未来)や救済、真の自由はない。
つまり、(倫理的な)「意味」のない生存は、自由であると見えても、やはり牢獄の中だ、ということ。
ただ、他人に至るこういう論理の展開は、先に読んだ『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)とは、少し違う気もする。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20081014/p2




それはともかく、「怠惰」が、「単独の主体」の限界を暗示するものだ、という指摘は正鵠を得ているだろう。
ボードレールのような人の鋭さは、そこにあるのだろう。
ところで、ここで考えたいのは、この世界に生きることを「労苦」としてとらえる、と言われる、その「労苦」についてである。
ぼくは『存在の彼方へ』からの類推で、ここで言われている「労苦」を、やはり倫理的な責務に由来するものと考えていた。考え直してみると、そうとも言えるが、単純ではない。
上に書いたことと同様、ここでの「労苦」とは直接には、実存者(私)がこの世界に「存在すること」の重さのことを言っていると考えられる。
だから、この「労苦」を私にとっての単純な悪(倫理的な生にとっての障害)のように考えそうになる。
だが同時に、この「重さ」は、私の外にあるものではない。存在のこの重さ、この労苦こそが、私が倫理的な責務を果たすことを可能にし、私を単独の生存と存在との呪縛から解き放ち、「存在の彼方へ」と開くものである。
「存在」、「世界」(その労苦、あるいは私にとっての「障害」)というものについての、この二重性が、この本ですでに語られていると思う。この視点は、シモーヌ・ヴェイユと共通するだろう。


「ある」の両義性


存在の彼方へ』の後半に少しだけ出てきて、ぼくにはたいへん興味深かった「ある」という概念について、この本では存分に語られている。
「ある」は、私(主体)にとりつき呪縛する存在の重みそのものなのだが、出口なき存在の過剰(ざわめき)であり、「死の不可能性」である、というふうに言われる。
「死の不可能性」こそ、絶対の恐怖だということは、直感的には分かる。

『殺すことも死ぬことも、存在からの出口を求めること、自由や否定が作用を及ぼす場所へと赴くことである。だが恐怖とは、この否定のただなかにそれでも何ひとつ変らなかったかのようにして回帰する<存在する>という出来事だ。(p130)』


訳者の西谷は、「ある」を「エス」と重なるものとし、(それ自体生命である)思考する精神が「物質」という概念のうちに回収しきれなかった「生命がある(生きている)」の事実性、残滓のようなものと解説している(p249)が、それもうなづける。


そして大事なことは、ここでも(ぼくも『存在の彼方へ』についてのエントリーで書いたことだが)、「ある」が、必ずしも悪しきもの、否定の対象とは考えられていない、ということである。
「ある」ということ、いわば世界の邪悪な「存在性」のようなものがあればこそ、人は倫理を、存在からの自由を、絶対の軽さを、獲得しうる。
私が何事かをなしうるのは、したがって存在からの離脱(解放)をなしうるのも、やはり「ある」のさなかにおいてのみなのだ。
西谷修は、「あとがき」で、こう書いている。

『だからこの「ある」からこそ身を避けなければならないが、また「ある」のさなかにしか実存もない。(p233)』


『むしろこの「ある」を前提としてそこに立たなければならない。それに、否定の暴力が身に及ぶとき「ある」はその否定に対する最後に残された場ともなる。(p243)』


レヴィナスは、たとえばエゴイズムを、単純に否定することは、決してない。
むしろそれこそが、存在からの離脱(他人の身代わりになること)が成就するための絶対条件とされる。


「定位」と「眠り」・「意識なき生存」


次に、この本で述べられているたいへん重要なことは、「定位」という概念である。
世界に関与することが重要なのではなく、ただ世界に存在するということ、生きて在ることが重要なのだ、と言う。
世界に関わることと、世界にただ生きて在る、という二つの次元が分けられ、後者が重視される。
「定位」の思想が示しているのは、そういうことである。


たしかに、この二つの次元が異なるということは、直観的には分かる。
ただたんに生きて存在しているという次元は、軽視できないものとしてある。
何事かをなす、世界に関与すること以前に、ただ生きていることの歓びといえるものはある気がする。
だが、レヴィナスがここで言っているのは、本当にそのことであろうか?
これは、関係があるかも知れないが、ないのかも知れない。ここが、よく分からないところである。


それはともかく、こう書かれる。

『眠りとしての無意識は、生のかげで活動している新たな生ではない。それは関与しないことによる、つまり横になるという基本的事実による、生への関与なのである。(p149)』


『<眠り>は、土台としての場所との関係を復元する。(p150)』


この「土台としての場所との関係」とは、世界にただ生きて在るということであり、つまりそれが(実存者である私のこの世界への)「定位」なのであり、「眠り」の状態こそ、生にとってのこのもっとも根源的なあり方(関与)を体現してるのだ、ということであろう。
こうした生の水準の重視こそが、存在に呑み込まれないこと、「意味」ある生の自由(後年、「他人の身代わりになる」という語で示唆される)を本当に保障するのだ。そういうことが言われてるのではないか。
人間の生(実存)の土台、条件としての、絶対的な受動性を扱っていると思われるこの箇所も、たいへん読み取りのむずかしいところである。


欲望と世界


さて、本書の構成では、「ある」と「世界」とは分けて語られている。
「世界」とは、われわれがそれに関わって生きている実際の日常のことだと考えてよい。
レヴィナスは、その「世界」とのわれわれの関わりを根底から欲望に根ざしたものとして捉えるが、ここでも、決してそのことを否定的に考えるわけではない。
西谷の表現を用いれば、世界の諸事物を「用材性」(道具・手段)として否定的にとらえるハイデガーに反して、レヴィナスは世界(事物)を「糧」としてとらえるのだ。

『快楽を何らかの欠如に先立たれた否定的なものとみなすプラトンの説は、欲望自身が、欲望をそそるものの約束をみずからのうちに歓びとして担っているということを見落としている。この歓びは、他のあれこれの欲望の「質」や「心理学的性質」によるものでもなければ、その強度によるものでも、またそれにともなう軽微な興奮の魅力によるものでもなく、世界が与えられているという事実そのものに由来している。(p079〜080)』


このように、レヴィナスは世界を基本的に歓びをもたらすものとして、欲望が満たされるか否かに関わらず、歓びをはらんだ「豊かさ」として見い出している。
「最悪の生」と考えられるものも、レヴィナスにとっては、「豊かさ」なのだ(逆に言えば、レヴィナスにとっての「豊かな生」とは、そうしたものだろう。)。
それは、「欲望にとっての」ということでもあるが、しかし「糧」というのは、そういう意味だけではない。
そうした世界を通してこそ、人は存在の呪縛からの離脱を実現しうるという意味でも、存在(世界)は糧である、と言われているのだと思う。

『さまざまな欲望や日々の足掻きをともなう私たちの世界内存在は、それゆえ途方もないペテンでもなければ、非本来的な状態への失墜や、私たちの奥深い定めからの逃亡でもない。この実存は無名で運命的な存在に対するあの抵抗の増幅であり、それによって実存は意識となる、つまりあの間隔を満たすと同時に維持する光を通じての、一実存者と実存との関係となるのである。(p102)』


世界は、また欲望(エゴイズム)は労苦だが、それを媒介(糧)としてのみ、人は存在からの解放(他人の身代わりになる)を生きることが出来る。
これは、そういう論理に向かっているのではないかと思う。


シモーヌ・ヴェイユが「中間的なもの」と呼んだ、「世界」に対するこのレヴィナスの肯定性は、やはり強烈なものだという印象を受ける。
西谷が述べているように、レヴィナスは、「存在」を悪と規定しながら、その存在を生きること(実存)を肯定し続けようとするのである*1



反メシアニズム・希望と救済


この部分は、「時間の本質」についての論述に先立って書かれている。
「時間」とは、レヴィナスにとって、「存在」と重なる概念であり、時間の本質の解釈は、存在(世界、この世界に生きること)をどのように彼が考えようとしているかという、これまで書いてきた論点と重なるだろう。
だが同時に以下の記述は、どこかこの本の議論全体から突出しているような印象も受ける。

『ところで希望の瞬間において取り返しのつかないものとは、希望の現在そのものである。未来は、現在において苦しむ主体に、慰めや償いをもたらすことができるが、現在の苦しみそのものは叫びのように残り、そのこだまは空間の永遠性のうちに永久に響きわたることになる。少なくとも、世界内の私たちの生を敷き写した時間の考え方のなかではそうである。この時間を私たちは、以下に見る理由から、「経済の時間」と呼ぶ。(p188)』


ここで言う「経済」とは、いわばメシアニズムまたは目的論・全体主義という意味での「経済」だ。
将来の救済(報酬)のために現在の苦痛を正当化するこの「時間」のなかで、人はその本来の倫理的な生存の責務を忘却し、いわば「存在」に呑み込まれて同一化する。

『状況ないし努力としての実存への関わり合いは、状況の現在そのものにおいて回復されるのではなく、押さえつけられ、埋め合わされ、そして償還される。それが経済的活動というものだ。(p189)』


これが、われわれの日常の生の、そして時間の捉え方の、通常の姿だというのである。

『しかし、この「代償の時間」は希望にとって充分ではない。涙が拭われ、死の報復がなされるだけでは希望にとって充分ではない。いかなる涙も無駄にされてはならないし、いかなる死も復活なしですまされてはならないのだ。(p190)』


そこで、希望は現在に、苦しみの瞬間である現在にこそ関わらねばならない、ということになる。
レヴィナスはそうした「希望」の対象とは、「救済(救世主)」であると言う。
だがそれは、存在(世界)のなかにこそ、「救済」は求められる、あるいはすでに出現している、ということなのである。

『労苦は償いえない。人類の幸福が個人の不幸を正当化しないように、未来の報酬は現在の労苦を汲み尽くせはしない。労苦を償いうるような正義は存在しないのだ。(p191)』


『希望を抱くとはしたがって、償いえないものの償いを希望すること、したがって<現在>のために希望することである。(同上)』


「救済」は、この現実、苦しみであるこの現在の存在のうちにこそ、探られ求めらるべきである。
レヴィナスの考える「時間」の本質は、そういう現在にこそ関わるもののようだ。
これは少なくとも、現在を犠牲にする政治的・宗教的なイデオロギーへの激しい告発として読める。
それはまた、存在に対する強固な肯定の思想だとも言えよう。ともかく、この眼前の現在を、不問にしたり犠牲にするわけにはいかない、ということでもある。


その一方で、ここでは変革(による救済)を追求することには、ある種の疑いが投げかけられているようだが、同時に、今あるこの現実(存在)のなかにおいて、どのように暫定的な正義を積み上げていくかという問いかけの方向は、見えかけているようでもある。

*1:存在を逃れ得ない悪と認めつつ、その向こうに、だがその営みのさなかにこそ、救済や解放を探ろうとする態度は、デリダレヴィナスから学んだ、もっとも大きなものではないだろうか?