立岩真也の横塚論を読んで

立岩真也による『母よ! 殺すな』単行本の解説は、本文に拮抗する素晴らしい内容である。ただ、一箇所だけ、「どうなのだろう」と考えさせられる点がある。それは、同書の406ページの終わりから、408ページにかけてのあたりである。


ここで立岩は、「障害(者)」という属性になにか積極的な意義付け(「障害は素晴らしい」とか)をする必要はないという考えを横塚は持っていたはずだという意味のことを書いた後で、こう付け加える。

ただ、横塚は他方で、なにか自分たちに固有な積極的なものを見出そうとしているように書いてあるところがある。それを「拠点」にしようと述べているところがある。(p406)


そして、横塚は自分たち「障害者」という、ある属性を持つ集団の「集合的・文化的同一性」の獲得ということを目指した節がある。ただし、結局は、その方向性は横塚自身により放棄された。こういう解釈になっている。
これは、たしかに、そういうこと(自分たちの属性集団への積極的な意味づけ、またアイデンティファイ)が書かれてる文章もあるのだが、ここで立岩が例としてあげている「カメラを持って」の一節に関して言うと、そういうふうにとるべきかどうか、ぼくには疑問があるのだ。
このエッセイのなかで、障害者としての「自己喪失の克服」ということを横塚が言うとき、それは「障害者」としての自己同一性の獲得ということを意味したのか?
たしかに、そういう方向性への揺れもあったと思う。しかし、それだけではない気がする。


立岩が完璧に論じているように、横塚は障害者である自分の問題を見つめることで、「人間とは何か」という普遍的な問いに迫ろうとした。

そして一人ぼっちになった自分、ありのままの姿の自己を捕らえた時、自ずから己とは何か、脳性マヒ者とは何か、更に人間とは何かということに突き当たるであろう。(p122〜123)


横塚たちはそこから、「この社会を作っている」われわれ「健全者(健常者)」の一人一人に対して、「人間として」の己の原点に立ち戻って生きること(社会を作っていくこと)を強烈に呼びかけ、迫ったのだ。
これこそ、本書の要諦である。


ところでそれが可能であったのは、「障害者」という横塚自身の一属性が、「人間」としてのわれわれのあり方を圧迫・侵害するようなこの社会というものの本質を照らし出すような位置に置かれるものだったからだろう。そして、この属性がそのような位置に置かれるということは、もちろん社会のあり方に根ざす問題であろう。
この社会のなかで、この属性がそうした位置に置かれてしまっているという事実によって、障害者は「人間とは何か」という普遍的な問いを自分の実存に関わる問題として、切実に考えざるをえないところに生きている、そう言えるのではないかと思う。
つまり、「人間とは何か」という普遍的な問いを切実に考えざるをえないという位置の特異性(特権性)は、属性そのものではなくて、社会のなかでのその属性の位置づけられ方によるのだと考えられる。


しかし、そのことは、常に自覚されているとは限らない。横塚の言う「健全者幻想」による「自己喪失」により、自分(の属性)が置かれている位置への自覚は失われ、そうすると「人間とは何か」という普遍的な問いを切実に問いうる(問わざるを得ない)という特異性も、その人(障害者)から失われることになる(これは、マイノリティーの「ペルソナ」化とか、非パーリア化というふうにも呼ばれる事態だろう。)。
横塚は、それを取り戻そうとしたわけだろう。ということは、それは「人間とは何か」ということを問いかけうる位置に居る自分自身への自覚、自分の身体(肉体と心の一致)を取り戻そうとしたということであり、この普遍的な問いを自分にも他者にも投げかけるための「人間としての自分自身」を獲得・奪還しようということだったのではないか?


要するに、横塚が「自己喪失の克服」という言葉によって障害者という自分の属性の再確認にこだわるとき、そこには(特殊的な)「集団的アイデンティティへのこだわり」と呼んで一概に切捨ててしまえない、「人間とは何か」につながるような普遍的な意味合いがあるのではないか、と思うのである。


母よ!殺すな

母よ!殺すな