承認と肯定

よく分からないことなのだが、分かると思うことだけ書き留めておく。
こちらのエントリーをはじめとして、「承認」が語られている記事をこのところよく見る。


基本的に、自分の存在が肯定されているという充分な感じを持たない場合、それを他人からの承認によって補いたいという気持ちを、誰でも持つだろう。「自己承認が欠けている」というのは、この状態を指してるのではないかと思う。
だがそれは本当は承認が欠けているのではなくて、肯定されていないということである。
われわれは、自分でも他人でも、ある人の何か比較可能な部分について承認することはできるが、存在そのものを承認したりしなかったりすることはできない。「存在の承認」という言い方は、おかしいのではないかと思う。できるとすれば、あくまで自己承認に留まるはずである。
存在について問題になるのは、肯定するかしないかということであり、そのもっとも基底をなす部分として存在(生存)の保障ということがあるだろう。
だから、自他の存在が保障されていないということに対して、抗議することはもちろん出来る。また、存在の肯定を求めることももちろん出来るが、それは承認の問題とは違う。
承認されようがされまいが、その人は生きている限り常に存在しているのである。


ところで、いま「存在の肯定」と書いたが、肯定については、他人の存在を肯定することと、自分の存在の肯定とは区分できるのだろうか。
そしてまた、存在(肯定)の次元と、比較・個別性(承認)の次元とは、どのように関わってるのだろうか?
そのうち考えてみたい。