家畜であることの幸福

これは命がけの幻想であるとも言えるが、幻想であることに変わりはない。ソクラテスが自ら死ぬと決めて死ぬとしても、ソクラテスは死刑囚や家畜的人間の一例として殺されて死ぬことに変わりはないからだ。むしろ、アテナイや神々や飼育者を( )に代入できるものと認めたことにしかならないからだ。そして、現代において、この( )には、「尊厳」「安楽」「自己決定」といった価値語や、「家族」「血統」「親密圏」「医療」「人類」といった神々が代入されることになる。これが、「秘教の教義」の基本的な仕掛けである。(小泉義之著『病いの哲学』 p027)


きのうドライヤーの『奇跡』のことを書いて、そのなかで「人間は神の家畜である」という考え方と、最後の「奇跡」の場面(つまり死んでたはずの人がよみがえる場面)とが結びつくのか、結びつかないのか分からないと書いたが、考えてみると(筋の上では)結びつきそうだ。
つまり、あの最後の場面のよみがえりというのは、キリストの再臨と考えられる次男によって引き起こされた「奇跡」だと考えれば、人の生も死も神によって完全に支配されているということで、これは「人間は神の家畜である」という考えと矛盾しないことになろう。
これは『病いの哲学』で徹底した批判が加えられた「安楽死」「尊厳死」の論理につながる。


この作品はデンマークの映画だが、『優生学と人間社会』(講談社現代新書)を読むと、「福祉国家」として知られるデンマークスウェーデンなどの北欧諸国では、戦前から知的障害者に対する「断種法」などの強力な優生政策が施行されていたことがわかる。
(とくに福祉国家における)優生政策は、人間の生を、人間が家畜を支配するような手法によって、つまり国家が「神」(飼育者)の位置に立つような発想によって管理・操作しようとした政策だとは言えないだろうか。


だが非常に重要だと思えることは、このような発想によって支配される社会が、たぶんそれなりに「暖かく」、「人間味のある」住みやすい社会であるように想像されることだ。
ドライヤーがデンマークに戻って撮った作品もそうだが、たとえばベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』のような映画を見ても、共通して感じられるのは、人生に対する達観したユーモア(人間味)の感じだろう。淡々と描かれる人生の日常、たいした起伏もなく過ぎていくその日々に対してとられている語り手(作り手)の眼差しに、見る者は安らぎのようなものを感じる。
だが考えるとそれは、家畜の生涯を眺める飼育者(神)の眼差しだけが感じさせる、安らぎの感情なのかもしれない。人々の生のドラマに対する暖かな距離感(ユーモア)と感じられたものの正体は、それだったのかもしれない、という気がしてくる。
しかし、そうであると分かっても、そういう眼差しによって支配される人生、いわば「家畜の生」が、「私」にとって快いものであるという事実は、変わらないように思う。
つまり、人間を「神の家畜」と見なすような発想と権力は、どこか「私」を決定的に安らがせるのである。
「優生思想」というものの、また現代では「自己決定」の名のもとに人々の生と死を管理してしまうような思想と権力の、ほんとうの恐ろしさは、たぶんこの点にある。


ドライヤーの『奇跡』にもどって言うと、あの最後のよみがえりの場面が、「人間家畜論」(小泉義之)の枠内に納まるというのは、もちろんたんにストーリーの解釈のうえだけの話である。
あの「奇跡」の場面の本当のすごさは、「奇跡」が「奇跡」であることの本質、いわば「奇跡性」のようなものが抜き出されて映像の形に変換されてしまったことにあると言えるだろう。
描かれている内容が「奇跡」なのではなく、内容を描く映像そのものが「奇跡」と化している。
その具体的・物質的な力が、人を神の家畜と考えるような社会の平穏と幸福を、はげしく裏切るのである。
人間を神の家畜と考えるような社会の恐ろしさに対抗できるのは、この「奇跡」を信じる力、それを現実のなかに物質的に到来させることができると信じる力だけなのかも知れない。


病いの哲学 (ちくま新書)

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優生学と人間社会 (講談社現代新書)

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追記:気づかなかったが、最後に「奇跡」を起こす次男。自分をキリストの再臨と信じているあの人は、やはり「知的障害者」ということになろう。当時のデンマークでは「断種法」の対象とされていた人を「奇跡」を起こす人物にすえたということを考え合わすと、あの映画に対する見方はまた変わってくるかもしれない。